梶ピエールのブログ

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会社派、土着派、エセ和僑−日中を語る際の「もう一つの倫理」−

この記事は「「中国論」の論じ方」および「「普遍性」をいかに追求するか、という課題」の続きです。だいぶ間が空いてしまいすみません。

 安田峰俊著『和僑』は、一作ごとに力をつけてきた若手ライターによる、やくざ、風俗嬢、農民など、中国にかなりディープに根を下ろして生活する日本人を取材した、本格的なルポルタージュである。本書で安田がインタヴューを行った対象、すなわち共感を持った日本人に共通する特徴とは何だろうか。一言でまとめるなら、「日本社会では生きがたい人々」これに尽きるだろう。それが望ましい結果をもたらすとか、新たな日中関係を切り開くとか、そういったお題目ではなく、ただ「そうせざるを得なかった人々」。そんな彼(女)らを日本人と中国との関係を語る切り口として選んだ本書は、前回の記事で紹介した子安著と対比すると、その「脱思想性」「脱倫理性」が際だっているように思われる。だが、それは一面的な見方ではないだろうか?

 というのも、子安著のような知識人中心の「中国論」が掲げる倫理を相対化する、いわば「もう一つの倫理性」を本書には見いだすことができるように思うからだ。それが最もよく現れているのは、「現地に溶け込んでいない」「中国人を理解していない」と批判されることの多い上海の「現地駐在員」について考察したくだり(第4章)である。そこに、戦前の上海社会における「会社派」と「土着派」の対比についての興味深い記述がある。組織に生きるエリートサラリーマンであった「会社派」と呼ばれた人々は、まさに現地駐在員の「元祖」といってよい人々である。彼らは、現代の駐在員と同じように、赴任先である中国に特別の思い入れも持っていない代わり、「暴支膺懲(≒中国にガツンと言ってやれ)」という日中開戦前夜に盛り上がった風潮にも一貫して冷ややかだった。では、当時国民感情の対立を背景に「開戦やむなし」という風潮を煽るような言動を行ったのはどういう人々だったか。

 たとえば、以下のようなくだりに著者の「倫理性」がよく現れているように思う。

 むしろ、「支那には四億の民が待つ(≒これからは中国の時代だ)」と欲望に目を輝かせていたベンチャー志向の人や、中国社会を理解しているつもりの自称「中国通」や、中国人を排斥して自己実現を図るタイプの愛国者や、自社の都合次第で国益を無視した対中政策を平気で支持した財界人や、時流におもねって適当な中国論を垂れ流したメディアの関係者といった人たちの方が、後生から見てよっぽど重大な責任を問われて然るべき言動をしていたのだ。

 安田氏をツイッターでフォローしている人なら気がついているだろうが、彼は「中国の民主化や人権問題などに関心を持つ日本人」に対し、挑発的ともとれる発言をしばしば行っている。これも、上のような記述と同じような倫理性から出たものといえるだろう。それは、中国という異なる価値観を持つ社会に、中途半端な思い入れをもって介入する姿勢に、「エセ和僑」ともいうべき欺瞞性をかぎ取り、批判せずにはおれない、という意味での「倫理」である。

 日中がギクシャクしてしまう理由として、いまだに「日本人が中国のことをよく理解していないから」といったことが唱えられたりする。もしそれが正しいなら、退路を断って中国社会に根付いてそこに生きることを選んだ人々こそ、日本と中国が「真の対話」を行い、二つの社会を「共振」させるのにもってこいの人材だといえるだろう。だが、こういうとらえ方はどこか予定調和的で嘘くさい。そもそも、中国の一般庶民と同じ土俵に立って生活する道を選んだ彼(女)らにとって、あくまで「中国は一党独裁の方が望ましい」のであって、インテリの唱える「民主化運動」などはうざったいものでしかない。考えてみれば当たり前だ。彼らの生活は中国社会の安定にかかっているのだから、その秩序を揺るがすことなど気軽に言えるはずがない。

 もしあなたが「人権抑圧は許せない」「チベット政策はひどい」「劉暁波さんを釈放しろ」などと「気軽に」言えてしまうとしたら、それはあなたが安全な日本に軸足を置いている「エセ和僑」、戦前の中国社会を理解しているつもりの自称「中国通」や「時流におもねって適当な中国論を垂れ流したメディアの関係者」の同類だからなのではないだろうか?

 ・・と言うわけで、僕は基本的に本書に隠し味のスパイスの様に効いている著者の倫理性に基本的に共感を抱いている。ただ、僕と安田氏に立場の違いがあるとしたら、僕自身はどこかで「エセ和僑」には固有の役割がある、という考えを捨てられないところだろうか。それは、二つの社会に足を突っ込んでいる「エセ和僑」だからこそ、それぞれの社会に固有の文脈をできるだけ相対化した「普遍性」「公共性」を追求できるのではないか、というかすかな希望である。逆に言えば、そのような「普遍性」に至らないような、中途半端な立ち位置から中国に介入する「エセ和僑」は安田氏が危惧するように、弊害しかもたらさないだろう。僕が、尾崎秀実や北一輝を含め戦前に中国社会にコミットした知識人をその「中国に対する思い入れ」や「動機の純粋さ」ではなく、あくまで思想や現実認識の普遍性の面から評価すべきだ、という立場をとるのも、全く同じ理由からである。

 さて、戦前にも日本への退路を断って、中国社会に根付き、現地の人々と深い関わりをもって生きることを選んだ元祖「和僑」ともいうべき人々は存在した。たとえば、明治大学法学部に在学中に、地主の御曹司だった中国人留学生と結婚して中国四川省に渡り、夫の死後、自ら地主として共産党による過酷な土地改革や財産没収に対峙しなければならなかった、福地いまという女性がいる。『私は中国の地主だった』という貴重な口述記録が岩波新書で入手可能だが、そこに描かれた、彼女が中国農村の劇的な変化を内面的に受け入れていく過程というのは、現在の「和僑」たち、そして「エセ和僑」として中国と関わらざるを得ない者にとっても、何らかの示唆を与えるかも知れない、ということを最後に付け加えておく。

 たとえば将来的に、中国の庶民が、「本当に共産党政権はひどい、これは倒さなければ」と決意して立ち上がるような事態になれば、「中国は一党独裁がふさわしい」と言っていたヒロアキさん−結婚して雲南省の農家となった2ちゃんねらーの男性−たちも、否応なくその考え方や行動を変えていかなければならないだろう。だが、それはあくまで中国社会内部とそこに住む人々の問題であり、「エセ和僑」が外部から介入してどうこうできるというものではないのだ。