梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

2010年に『1Q84』を読む

 「2010年」に特に深い意味はありません。以下のテキストは『1Q84』を読んだときになんとなく思いついてメモしてその後随時書き足していったもので、その後アップする機会を失ったのでほったらかしにしておいたものです。ただ、『1Q84』の続編が4月には出るようなので、なんとなくそれまでお蔵入りさせとくのは悔しいような気がしたのと、年明け最初のエントリを逃すとこのままずるずるしまっておきそうだったので、とりあえず出すことにします。自分としてはここで書いたことともどこかでつながっているつもりなんですが、説得力のあるものになっているかどうかは全く自信がありません。


 『1Q84』あるいはその予告編ともいうべき短編集『神の子供たちはみな踊る』では、繰り返し「精神空白」およびそれを埋める「宗教的なもの」、そして「父親に捨てられる子ども」といった主題が描かれる。

 ただ、誰でも気づくように、『1Q84』の特徴は、それまでの村上作品のように「あちら側」と「こちら側」という空間的なパラレルワールドが描かれるのではなく、「書き換えられた/書き換えられなかった世界」という時間的に二元化された世界を舞台にして話が進むところにある。
 この、「書き換えられた世界」というモチーフは、恐らく単に思いつきとして選ばれたのではない。「精神的空白とそれを埋める宗教」というもう一つのモチーフと実は深く結びついているのだ。そのことを理解するのに恐らく有用なのが、哲学者永井均の「解釈学・系譜学・考古学」という短いテキストの、以下のようなくだりである。

 幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提のもとで展開していくことだろう。それは、彼らにとって間違いなく幸福なことだ。自分の生を最初から肯定できるということこそが、すべての真の幸福の根拠だからだ。だからわれわれは、そういう物語を、つまり『青い鳥』を、いつも追い求めている。

 だが、この物語は、同時に、それとは別のことも教えてくれる。つまり、−−‐‐その鳥はほんとうにもともと青かったのだろうか? それは歴史の偽造ではないか? 彼らはいま、鳥がもともと青かったという前提のもとで生きている。過去のさまざまな思い出、現在のさまざまな出来事は、その観点のもとで理解されるだろう。そして逆に、その理解が、鳥がもともと青かったという事実のもつ真の意味を、つまり真の幸福とは何であるかを、いっそう明確に定義することになるだろう。このとき、彼らは解釈学的な生を生きているのである。


 永井のこのテキストは、一種の宗教論としてみることもできる。たとえば、すべての宗教はすぐれて解釈学的な性格を持つ。最も単純なパターンとしては、「これまであなたが不幸だったのは神への愛が足りなかったせいですよ」とささやく、といったものだ。一定のパースペクティヴによって過去に「意味」が与えられる事で、なんらかの「空白」を抱えた人が実際に救われることもあるからこそ、そのような安手の「解釈」を与える宗教が引きも切らず生まれてくる。そして、そのような新旧の宗教の中でも特に邪悪なものから信者たちを「奪回」しようとするときには、通常「あの宗教は邪教であり、偽の世界観を吹き込まれたのだから」といったそれとは別の種類の解釈を吹き込むことになる。


 だが、より巧妙な宗教であり、日常まで本当にその宗教の「教義」に染められており、周りの人すべてが「洗脳」されているとしたら? そういったいわば「醒めることを禁じられた夢」の中にいながら、なおかつその「外部」にでようとするならば、それは系譜学的な方法によるしかない。それは、「今あるこの世界のなりたちは、誰かによって一度書き換えられたものではないだろうか」と、問うことに等しい。ちょうどニーチェが、キリスト教的な世界における道徳の成り立ちを同様の手法により問うたように。

 しかし、系譜学的懐疑は、それが徹底して行われるほど、それを支える確実な論理的根拠を自ら掘り崩していく。あるとき、私は空に月が二つあることに気づく。そして、それはいつからかリトル・ピープルがそのように世界を書き換えたのだ、という疑いをもつとしよう。しかし、それを支えているのが「確かに昔は月が一つだった」、あるいは「自分の記憶していない社会現象がいつの間にか起きたことになっている」という自らの記憶や感覚だったとして、その記憶や感覚が確実なものであるという根拠はどこにあるのか?その記憶自体、リトル・ピープルが捏造したものであるかもしれないのだ。

 このように考えると、リトル・ピープルとは、誰もがそれを深く信じているような宗教=解釈学に支配された世界から、系譜学的思考によって外部に出ようとするときに、どうしても残ってしまう「決定不可能性」のことではないだろうか。リトル・ピープルにとらわれた者、すなわち、いったん書き換えられた世界の「外部」にでようとする者は、果てしなく世界についての自らの記憶の改竄の可能性を問うていかなければならない。このことは、「月が二つある世界」の根拠を徹底的に問うことは、実はもともとの「月が一つだった世界」の根拠を問うことに等しいということを意味している。


 引き続き、永井のテキストを引用しよう。

しかし、解釈学と系譜学の対立が問題になるような場面では、そういう素朴な見方はもはや成り立たない。もともと青かったのでもなければ、ある時点で青くなったのでもなく、ある時点でもともと青かったということになったという視点を導入することが、系譜学的視点の導入なのである。それは、鳥がいつから青くなったかを探求することでも、いつから青く見えるようになったかを探求することでも、ない。そういう探求はすべて、解釈学的思考の枠内にあるからだ。

だが、「ある時点でもともと青かったということになった」という表現には、本来共存不可能なはずの二つの時間系列が強引に共存させられている。「もともと青かった」と信じている者は「ある時点で……になった」と信じる者ではありえず、「ある時点で……になった」と信じる者は、もはや「もともと青かった」と信じる者ではない。だから、「ある時点でもともと青かったということになった」と信じる者の意識は、解釈学的意識と系譜学的認識の間に引き裂かれている。統合が可能だとすれば、それは系譜学的認識の解釈学化によってしかなされない。

 いうまでもなく、『1Q84』の場合、「ある時点で……になった」と信じる者と、「もともと青かった」と信じる者との分裂は「青豆」と「天悟」の間に生じている。青豆は三軒茶屋のインターの非常階段を降りたときから世界は「1Q84」に切り替わり、空に二つ浮かんだ月こそがその動かしがたい証なのだ、とかたくなに信じている。それに対して天悟は、やはり月が二つ浮かんだ空をみて「もしかしたら昔からこうだったのかもしれない」とぼんやり考える。
 この二つの視点が一つの世界で結びつくことはありえない。青豆と対峙したふかえりの父が予言するように、青豆が生き残って天悟が死ぬか、天悟が生き残って青豆が死ぬか、その二つに一つしかないのである。それはなぜか。この二つの視点が統合されるとき、考え方によってはよりたちの悪い、もう一つの解釈学=宗教がたち現れるしかないからである。


 このような「たちの悪いもう一つの解釈学」、そのおぞましい典型ともいうべき人物造形を、われわれは、ジョージ・オーウェルの『1984年』における、オブライエンという秘密警察的なものを体現した人物、および彼が実践する「二重思考」においてみることができる。

1984年』の世界において、ビッグブラザー(実際は「党」指導部)は、オセアニアに住む人々の歴史と記憶を書き換える力を持っている。たとえば、オセアニアイースタンと戦争することになったとき、実は以前からこの二国は敵同士だったのだ、と人々は思い込まされることになる。しかし実際には、人々はオセアニアがこれまで交戦状態にあったのはユーラシアであったことを知っているのだが、「二重思考」の実践により、あたかも昔からイースタンとの戦争が続いていたと信じているかのようにふるまっているのである。まさに「ある時点でもともとイースタンと戦争していたということになった」というわけである。「二重思考」とは、このように本来引き裂かれている解釈学的認識と系譜学的認識を、無理やり統合する営みに他ならない。
 しかし、そのことを公言することはオブライエン(および党指導部)のみに許されており、そのことを、明らかにオブライエンとは別の意図を持って公言しようとした主人公ウィンストンを、オブライエンは抹殺しようとする。人々が「二重思考」にとらわれている状況の下では、「世界の本当のありかた」を決める客観的な基準はなく、それは「ビッグブラザー=党」の恣意的な決定にゆだねられているからである。

 「この世界」に対する徹底した系譜学的な再解釈は、たとえばマルクス・レーニン主義に基づく世界の再解釈がそうであったように、基本的にそれとは別の仕方の解釈学・系譜学の存在を許さない。その結果、権力を持つ者が「世界の本当のありかた」を恣意的に決定する、という悪夢のような状況をもたらす可能性を常にはらんでいる。『1984年』における「二重思考」とは、単に現存した社会主義国家の下で生まれた思想統制カリカチュアではなく、そのような排他的な世界の再解釈の結果、必然的に生み出される「邪悪なもの」を体現したものだと考えるべきなのではないだろうか。(続く)