梶ピエールのブログ

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忌野清志郎と「公共性」に関する試論


 批評家の吉本隆明は、1980年代から忌野清志郎をしなやかな感性を持ったアーチストとして高く評価をしていたが、1988年に発売されたRCサクセションの反原発ソング「サマータイム・ブルース」(アルバム『COVERS』に収録)の歌詞を、個人発行していた雑誌『試行』誌上で紹介し、「聞きしにまさるハレンチな歌詞」であるとして厳しく批判した。

 ここで、吉本の反原発批判の是非はひとまず置いておき、なぜ、吉本隆明は忌野の反原発ソングをこき下ろしたのか、を考えてみたい。このことにこだわることは、むしろ忌野の偉大さ、およびそのパフォーマンスが持つ意味を、改めて浮き彫りにすることになるはずだからである。

 まず最初に、社会学などでよく使われるらしい、「生活世界」と「システム」という二分法が便利なので、これを援用して論じてみよう。

 忌野清志郎は、初期のころから一方で「システムの介在なしに魂が直接触れあえる世界」を高らかに謳いあげると同時に、システムに従って生きるしかない(それゆえに魂の触れ合いができない)人々に反発したり揶揄したりする唄を数多く作ってきた*1

 このような忌野の姿勢は、一見「生活世界」における無垢性を根拠にして「システム」の欺瞞性を撃つというものであり、そこから原発やそれに依存する社会を批判することとは、切れ目なくつながっているようにみえるかもしれない。

 しかし、システムに従うしかない生活世界の住人たちに反発することと、「無垢なるオレたち」の立場からシステムを直接告発することの間にはやはり大きな落差がある。端的に言うならば、現代社会では誰もが多かれ少なかれシステムに依存して生きているので、システムによって直接痛めつけられた「当事者」でもない限り、それに対する生活世界からの無垢なる告発というものはありえないからである。「当事者」ではない者が本気でシステムを変えようとするならば、革命家であることを引き受けるか、ピースミール的改良を行う専門家として発言するかのどちらかである。そうでない限り、本来「生活世界」からは直接見えないはずのシステムへの告発は、嘘っぽい「借り物の言葉」でなされるしかない。

 吉本が忌野の反原発ソングを評した「ハレンチ」という言葉は、要するに「生活世界」から「システム」を告発すること、あるいはその困難さへの無自覚さに向けられたものなのだと思う。「借り物の言葉をあたかも自分の言葉のように語る」アーチストは「ハレンチ」だと罵られても仕方がないからである。


 しかし忌野は、結局のところ吉本が忌み嫌った「反体制」アーチストの枠組みに収まりきることはなかった。その「逸脱」の端的な現れを、『COVERS』の発売中止問題があったあと、タイマーズのゼリーとして古館伊知朗の番組に出演した際の、有名なパフォーマンスにおいてみることができる。

 システムの告発自体が目的なのであれば、テレビに出演した機会にあくまでも原発の恐ろしさを説くのが「正しい」姿勢であり、その意味では忌野はむしろ東京電力や東海電力を告発する唄を歌うべきであっただろう。しかし、よく知られているように、実際に彼が番組の中で罵ったのは東京電力ではなく、彼の曲のオンエアを自粛したFM東京であった(「FM東京オマ×コ野郎」)。
 これは一般には忌野の「反権力」性を示すエピソードとして理解されているが、しかし反原発運動そのものからは逸脱した姿勢だと言わざるを得ないだろう。しかし、アイロニカルな言い方をすれば、その逸脱によって、「システムに従うしかない生活世界の住人を怒る」という、従来の彼のパフォーマンスの姿勢を保つことができたのだ、と思う。

 その後彼は確信犯的に放送コードには乗らないような曲を連発していくが、僕自身その時期の彼の活動についてはあまりフォローしていない。しかし、その中でもシステムを直接告発する唄は非常に少ない−僕の思い浮かぶ限りでは「善良な市民」くらい―のではないだろうかか。それは、彼が危ない橋を渡りながらも、結果として生活世界とシステムとの間の「ズレ」を身をもって示し、リスナーに「感じさせる」表現方法を会得していったからだと思う。

 そのことを象徴するのが、「君が代」のパンクバージョンだったのではないだろうか。いうまでもなく、そこにはシステムを直接に語る言葉は一つもない。しかしその演奏を耳にするものはこの歌の流通を認めないであろう、システムの抑圧性について思いをはせずにはいられない。もちろんそれは彼にだけ許される危なっかしい賭けではある*2。しかし、生活世界の感覚を重視しながら、システムへの違和感を表現するのに、これ以外の表現方法があるだろうか?

 さて、ここでやや唐突ながら、稲葉振一郎(『「公共性」論』)の言葉を借りてみよう。彼によれば、「社会思想における「近代」とは「生活世界」と「社会システム」との間にズレが意識されるようになった時代」であり、また「このような、「社会システム」と「生活世界」の分離が自覚された上での、その克服(中略)、これを「公共性」と呼んでよい」(47-49ページ)ということになる*3
 このように考えるとき、「生活世界」と「システム」との間のズレ、および、それを「言葉」と「音楽」によって表現する方法についてこだわり続けた忌野清志郎は、近代的な、あまりに近代的な表現者として、最後まで「公共性」の問題から逃げなかったし、それゆえに絶大な支持を集め続けたのだ、と言えるのではないだろうか*4
 少なくとも、彼の歌やパフォーマンスは、僕がこれまで少しでも社会的な問題について考える際の一つの参照点になってきたし、これからもそうであり続けるだろう。


「公共性」論

「公共性」論

*1:前者の代表が「スローバラード」「君が僕を知っている」などであり、後者の代表が「あきれて物も言えない」「ボスしけてるぜ」などである。また後者の別バージョンとして、システムに従わざるを得ない自分自身を自嘲気味に歌ったのが「ドカドカうるさいR&Rバンド」などの作品である。

*2:たとえば「このパンクバージョンの君が代こそが尊皇精神を体現したものである、と「システム」が認めることによって、メッセージの意味が逆転される危険性を常にはらんでいる。

*3:さらに稲葉の議論に従うなら、システムがより高度化し、そこに暮らす人々がもはや生活世界とのズレを感じなくなった状態が「動物化」した世界、ということになる。しかし、このような動物化した世界の中で、人々はお互いにセックスをすることはあっても、忌野の言うような意味で「愛し合う」ことはないのではないだろうか。

*4:ついでに言えば、吉本隆明の有名な「転向論」も、一種の「公共性」をめぐる議論として捉えなおすことができるように思われる。吉本は、中野重治のような戦前の転向文学者を、自分たちが信奉していた共産主義のイデオローグ―それはもう一つの「システム」に他ならない―と「生活世界」との「ズレ」に敏感であったという点において、そもそも「生活世界」へのまなざしを欠いていた非転向者たちに比べ優位においたのである。この時の吉本の姿勢は、忌野の反原発ソングを評価する際にも受け継がれているように思う。