梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

汚職・成長・法


 先日NHKBSで放送されたソリウス・サムラ氏によるケニア社会のドキュメンタリーは、本物の「賄賂社会」というものがどういうものか余すところなく伝えていた。一言でいうと、ケニアではスラムのようなただでさえ貧しい人々が住むような地域であっても(というか、そういう地域だからこそ)、ほとんどの公共サービス(電気・水道・ビジネスの認可、建築の許可・・)が役人への賄賂なしでは受けることができないのだ。その賄賂の負担の重さは、スラムの住人の生活をますます苦しいものにしている。

 また、本来はそういった貧しい人たちのためのものであるはずの政府補助金の分配も、やはり賄賂によって左右される。活動実態のない「地域住民組織」やNGOが多数作られ、役人を買収することで正式な認可を受け、補助金を受け取ることが横行しているためだ。このことは、海外からの資金援助もこのようにして不正に着服されてしまう可能性が大いにある、ということを意味している。

 ついこの間まで「アフリカの優等生」といわれていたケニアでさえこんなにひどい汚職が蔓延していたのか、という気になるが(撮影されたのは恐らく昨年の暴動の前)、次のような考え方もできるのではないだろうか。ケニアは他のアフリカ諸国にくらべ「まだまし」な状況だからこそ、賄賂や汚職が番組のように目に見える形で蔓延していたのだ、と。賄賂の横行は明らかに社会の公正さと効率性を損なうが、それは「賄賂さえ払えばなんとか事は運ぶ」状況を意味するとも考えられるからである。

 実は、開発経済学においてはこのような「汚職の効率性」がまじめな考察の対象になってきた。この点についてはたとえば黒崎卓・山形辰史『開発経済学日本評論社、の第11章「開発援助とガバナンス」が参考になるだろう。 
 同書によれば、例えば汚職公務員が多数存在し、政府の財・サービスを消費者に完全競争的に供給するなら、賄賂が希少な公共サービスの「価格シグナル」として働き、サービスの過剰/過少供給が防げるかもしれない。また、公務員が提供するサービスに応じて賄賂をもらうという状況は、税金で公務員の給料を全てまかなう場合に比べて、公務員の仕事に対するインセンティヴが上昇する可能性さえある。このような議論は、一見荒唐無稽に見えるが、実は市場さえ機能していれば財・サービスの所有権の設定は配分効率性に影響しないという「コースの定理」に基づいている。実際、いわゆる「公共サービスのアウトソーシング」は、そのようなロジックによって行われてきたはずだ。

 もちろん、黒崎=山形はちゃんと汚職のデメリットも述べている。
 汚職・賄賂はなんといっても非合法なので、見つからないように行う必要がある。したがって汚職が蔓延した社会では、本当に必要な公共サービスではなく、「より賄賂を取りやすい」サービスが好んで提供される傾向がある。また、特定の公共サービスを提供する権限を持っているのは通常一つの役所(電話、電気、道路など)であり、サービスはその役所により独占的に供給されるため、賄賂の価格がつりあがることも大いにありうる。なによりも、「政府は自分達を助けるどころかむしりとるだけだ」という感覚は、住民の不公平感を高め、政府や「法の支配」に対する信頼性を著しく下げてしまう。

 これらのケニアの現実と汚職に関する理論的な考察から、どういったことが言えそうだろうか?

 まず第一に、賄賂社会と経済成長は必ずしも相性が悪くないかもしれない、ということだ。例えば、ケニアの2004年からの3年間の実質GDP成長率はそれぞれ5.1%、5.7%、6.1%である*1。おなじみウィリアム・イースタリーも、スハルト時代のインドネシアのように、ひどい賄賂社会と良好な経済パフォーマンスが必ずしも矛盾しないケースがあることをことを指摘している(『エコノミスト南の貧困と戦う』。現在の中国も同じようなケースである、といえるだろう。ただ、どのような汚職なら経済成長を阻害して、どのようなケースなら邪魔しないのかは必ずしも明確ではない。シュライファーとヴィシュニーの有名な論文*2では、汚職が分権的か中央集権的か、によってその「効率性」が論じられているが、どうもそれだけでは説明がつきそうもない。

 第二に、賄賂社会は、たとえ表面上はうまく回っているようにみても、実際は政府が貧しいものに全てツケを回す形で「私的」に財・サービスを提供しているに過ぎない。それは経済成長の過程で格差が際限なく拡大することがビルト・インされたシステムだといってもいいかもしれない。社会全体がその構図に耐え切れなくなったときに、おそらく暴動や内乱が起こる。ケニアがまさにそうであったように。

 第三に、汚職の根元を絶つには肥大化した公共セクターを縮小すればいい、という従来の常識をいったん疑う必要がある、ということだ。既に述べたように、問題は汚職官僚による公共サービスの私的な提供―「競争的」といってよいまでの―が余りに拡大したことにこそあるのかもしれないからだ。
 もちろん、いわゆる公共サービスのアウトソーシングと「賄賂社会」が決定的に違うのは、後者では「法の支配」が存在しない、という点にある。だが、たとえばケニアのような社会で「法の支配」を確立するにはどのようにすればいいのだろうか。そこでは、汚職による貧困の再生産のメカニズムが日常化しているために、人々の公共セクターへの信頼性が低下して「法の支配」が機能せず、そのためにますます公共サービスが私的に提供され、貧困が再生産される、という悪循環が生じていると考えられるからだ。このような悪循環の存在は、「法の支配」さえあれば経済システムに自生的秩序が生じるであろう、というハイエク的な市場観のアポリアを示しているとはいえないだろうか。

 ・・話が大きくなりすぎた。いずれにせよ、途上国政府の腐敗のメカニズム、またその経済発展との関係にはまだまだ分からないことが多い。日本でもアフリカ支援に本格的に注目が集まりだしたことは歓迎すべきなのだろうが、同時に「貧困撲滅のためにはまず汚職を止めよ」というサムラ氏のメッセージも、重く受け止められるべきだろう。

開発経済学―貧困削減へのアプローチ

開発経済学―貧困削減へのアプローチ

エコノミスト 南の貧困と闘う

エコノミスト 南の貧困と闘う

*1:http://www.jetro.go.jp/biz/world/africa/ke/stat_01/

*2:Shleifer, Andrei, and Robert Vishny, "Corruption," Quarterly Journal of Economics, August 1993, 108(3), pp. 599-617.