梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

人権、民族、アジア

 遅ればせながら、先週水曜日に神戸で行われたラビア・カーディルさんの講演会について思ったことを書いてみたい。すぐに書くことができなかったのは、ウイグルの問題を含め、中国の民族問題について考えることの難しさを改めてかみ締めていたからである。ちなみに、講演会の模様がどんなのようなものだったか、いくつかネット上に出ているが、この東京公演のレポートが詳しいと思うのでそちらをご参照ください。

 さて、上に述べた「難しさ」には二つの側面がある。一つには日本ではこの問題を論じること自体がともすれば「親米」か「親中」か、といった国内ポリティクスの文脈の中に位置づけられがちだ、ということがある。例えば、ラビア・カーディルさんのインタヴューが最初に『諸君』に掲載されたとき、杉田敦氏が次のようなことを述べている(おなじみkokさんのエントリより)。

 従来の左派言説には、資本主義圏での人権侵害に敏感な一方で社会主義義圏でのそれには鈍感な傾向があったと言わざるをえない。二重基準の疑いさえ招きかねない対応の背景には、平等化を標榜する社会主義制の方が正しいはずだという見方があった。人権の普遍主義が、進歩主義と結びついた冷戦思考によって曇らされた面があるのである。右派の言説が、日本社会がかかえる問題から目をそらし、経済競争がもたらす悲惨を軽視しがちであるならば問題である。しかし同時に特定の国での人権問題(中国政府によるウイグル人弾圧を明らかにした水谷尚子「目のあたりにした血も凍る拷問・悲鳴・絶叫・・・」諸君!5月号など)が、右派系メディアの「専門分野」になっているとすれば、健全なことではない。

幸いなことに、今回のアムネスティによる一連のスピーキングツアーによってそのような「不健全な状況」は大きく変わりつつある。この変化は、なによりも近年海外ウイグル人の運動が「世界ウイグル会議」を中心として国際的な人権・人道問題を訴えかけるという姿勢を明確にしているという事実が、ようやく日本にも知られつつある、ということを示している。それに加え、ラビアさんの個人的なパーソナリティに負うところも大きいだろう。彼女は紛れもない「民族主義者」だが、決してイデオロギー先行ではなく、自分の勤勉さと才覚だけを頼りに財産と地位を築きながら国家権力により全てを奪われるという、俗に言えば実に「日本人受けする」ライフストーリーを持った女性である。彼女のような人物が、いわば亡命ウイグル人の象徴となったことは、問題への関心を高める上で計り知れない効果を持っているだろう。

 しかし、仮に国内言論の状況が変わりつつあるとしても、そこにはまた別の難しさが残されている。それは、恐らくは世界中の被支配下におかれた民族と同じく、彼(女)達の当局による「自由権」の侵害への抗議は、「民族自決権」の主張と不可分に結びついていることにある。ならば、それを求める人々に自由権と同時に民族自決権を与えさえすれば全ては解決するのではないか、というふうに簡単にはいかないところに問題の難しさがある。これについての僕の考えは、以前のこのエントリを書いたときとほとんど変わっていない。過去の社会主義諸国の経験からみて、「民族自決権」という理念に過度の期待を抱くことができない、というこのエントリで紹介した塩川伸明氏の認識はまったく正当なものだと思う。

 が、いかに「民族自決」の理念が疑わしいものであろうと、必死の思いでその理念にすがり付いて自らのおかれた過酷な状況を訴えようとする人々の訴えをむげに否定するわけにはいかない。ましてや、それを暴力で押さえつける行為が許されてよいはずがないことは言うまでもない。ラビアさんの経歴を見れば明らかだが、民族間にあからさまな支配ー被支配の関係がある状況において、いわゆる「民族主義者」と、体制に協力する「現実主義者」との境界は自明ではない。特にある一定以上の教育をうけた被支配民族は、何らかのきっかけで容易に「民族主義者」に転じうる*1。決して中国政府が言うように、特別な一握りの人だけがそうなるものではないのである。

 自由と民主主義を「力」で押し付けようとするアメリカの行為が世界中で混乱を招いていることを考えれば、体制に近い立場からの、中国(などの非欧米社会)には、伝統的に欧米モデルとは異質の独自の秩序概念があり、その下で(これまでそうであったように)これからも問題はありつつもなんとか諸民族は共存できる、という主張には一定の説得力を持つ。しかし、このようなロジックはそれがひとたび国内に対して向けられるとき、それが巧妙に語られるほど、結局は「寝た子を起こすな」といった現状を肯定するイデオロギーとしてしか働かないように思われる。そして問題は、「寝た子」だと主張されるものが実際は「寝たふり」をしていたり、あるいは殴りつけられて気絶している子であったりするかもしれない、というところにあるのである。

 また、中国に限らず非欧米諸国の支配層によりこのような「伝統的な秩序観」が語られるとき、往々にして他の(欧米以外の)地域の事例が忘れ去られることが多い。例えばスハルト政権に近かった人々も、最後にいたるまで東チモールアチェを「われわれなりのやり方」でうまく統治していけるはずだ、と信じてはいなかっただろうか。もちろん欧米や旧ソ連が中国と同じではないように、インドネシアと中国は同じではない。が、文化的な背景がいかに異なっても、民族間に支配ー被支配の関係が見られるとき、支配者側のイデオローグや被支配者側の抵抗のあり方、さらに言うなら諸外国の干渉のあり方には、おどろくほど共通点も多いのも事実である。その共通点は決して無視されてよいものではないだろう。

 もちろん、簡単に答えを出せる問題ではない。しかし、もし本気で将来の流血や悲劇を避けようとするなら、「人権」や「自由」について少しでも本質的な議論を積み重ねていくしかない―ちょうど欧米の人権概念がそのような試行錯誤の上に積み上げられてきたように―のではないだろうか。
 そのためには杉田敦氏の指摘にもあるように、冷戦思考を引きずる国内のポリティクスから、(東)アジアという特定の文脈における「人権」や「自由」をめぐる議論が表面的な対立のレベルにとどまりほとんど深められてこなかった、という状況は早晩何とかされなければならない。今回のスピーイングツアーがその壁を破る起爆剤になってくれることを望んでやまない。

*1:平田オリザ原作の青年団の演劇『ソウル市民1919』は、そのことを実感させてくれる優れた作品である