梶ピエールのブログ

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農家の経済学・歴史編:「嫁は春に貰え!」


 大分前に書いた成瀬巳喜男の『鰯雲』についてのエントリ(id:kaikaji:20060214#p2)に若手の映画研究者の方からトラックバックを頂いたが、そこで紹介されている「春嫁と秋嫁」の話はすごい。

嫁に春嫁と秋嫁と言うのがある。春嫁、つまり三月から四月ごろまでに貰う春の嫁は、貰い方の勝ちで、くれ方の負けだとされるのは、貰う早々、ムダめしも食わせず野良へ連れ出せるからである。これは貰い方の優位な場合そうなる。秋嫁、つまり秋の穫り入れがすんでから貰う秋の嫁は、それから秋、冬と長い間ムダめしを食わせてあそばせてからでないと、野良がはじまらない。この方はくれ方の優位な場合である。(十六)

 「封建的」云々というより、あまりにその発想が経済合理的なのに驚かされる。思わずbewaadさんによる一連の「農家の経済学」のエントリを連想してしまった。

http://bewaad.com/20060608.html
http://bewaad.com/20060610.html
http://bewaad.com/20060611.html
http://bewaad.com/20060613.html
http://bewaad.com/20060616.html

 さて、この「春嫁と秋嫁」の話だが、歴史的な起源はいつごろに求められるのだろうか。もちろん、江戸時代などから続いている風習なのかもしれない。しかし考えようによっては、それほど古いものではないような気もするのだ。

 というのも近代以降における日本の農村では、農家の副業として養蚕業や織物業などの問屋制家内工業が盛んに行われており、農村における「余剰労働力」、すなわち農閑期における女性たちこそがその主要な労働の担い手だったと考えられるからだ(例えば新保博『近代日本経済史』ISBN:4423895102)。もしこうした農村における副業が好調であれば、別に秋に嫁をもらおうが家内工業の労働力としてこき使えばいいわけで、必ずしも「秋嫁」=「ムダ飯を食わせる」「大損こく」とはならないのではないだろうか。

 だが、農家の副業としての養蚕業や織物業の好調は長くは続かなかった。特に第一次世界大戦後、生糸・繭の価格は下落を続け、世界恐慌によるアメリカ経済の収縮によって農村における養蚕業は「壊滅的な打撃」を受けたとされる。岩波講座 「帝国」日本の学知〈第2巻〉「帝国」の経済学に収められた中林真幸氏の論考は「日本資本主義論争」についてのブリリアントなまとめであるが、中林氏によれば、このような農村における余剰労働力の吸収手段たる養蚕業の壊滅に代表される「農村経済の危機」に際し、それを古典派的二重経済モデルに類似した一貫した論理で説明しようとした試みこそ、講座派の論客・山田盛太郎の名著『日本資本主義分析』に他ならなかった。

 さて、『鰯雲』の原作者である和田伝が気鋭の農村文学作家として活躍したのも戦前の昭和期、すなわち農村の在来産業が打撃を受け、東北地方を中心に「農村の窮状」が大きな社会問題とされた時期であった。
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/broadband/book/kindaishiwa/page_12617.html
 和田の出身地は『鰯雲』の舞台にもなっている厚木周辺の農村だが、当然東北地方の農村の窮状も意識の上にあったと思われる。

 こういうことを考えると、和田が戦後の作品である『鰯雲』においてもこだわっていた「春嫁と秋嫁」=「嫁にムダ飯を食わすな」という話は、むしろ昭和初期の、農村における余剰労働力のはけ口としての養蚕業などが壊滅し、困った農家が若い娘を口減らしに身売りするという、成瀬映画で言えば『君と別れて』に典型的に見られるような状況の下でこそ特に強調された考えだという可能性もあるのではないだろうか。もちろん、参考資料も何もないまま言っているので、単なる僕の思いつきに過ぎない可能性も大いにあるわけだけど。一度、和田伝の作品を読んでみなきゃいかんかなあ。

 いずれにせよ、『鰯雲』のラストシーンの、淡島千景が一人で耕運機を颯爽と駆って農作業を行う姿は、農村における生産力の発展につれ、「春嫁と秋嫁」のようなかつては経済的合理性があったかもしれない「封建的遺制」もやがてきれいさっぱりと忘れ去られていく、つまり、あくまでも下部構造が上部構造を規定するのであり、その逆ではないということを象徴しているようにも思える。その意味で、『鰯雲』は究極の唯物史観映画と言えるかもしれない。