梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

スタンフォード大カンファレンス報告・その2

間があいてしまいすみません。今回は二日目のセッション、Regional Finance and Monetary Issuesについて、パネラーの一人であった伊藤隆敏氏の報告を中心に見ていくことにする。

 さて伊藤氏の報告のテーマは端的に言えば「アジア共通通貨」の導入についてであった。アジア通貨構想についてはこれまでにも何人かのリフレ派論者から金融政策の自立性のコストや最適通貨圏の観点から疑問が出されている(というか伊藤氏もリフレ派なんだけど・・)。
これまでのいくつかのエントリをご覧いただいた方にはお分かりのように僕も基本的に同じ立場だが、ただ実感としてアメリカの中に、かつてアジア通貨基金構想が潰されたときとは異なり一部ではあるにせよこれを容認するような動きが生まれているように思え、そのことがかなり気になっていた。またこの構想はどうも中国からも好意的に受け止められているようである。

 しかし、日・中・米の利害を調整する形でのアジア共通通貨構想とはどういうロジックに基づくものか、いままで具体的にイメージが結べずにいた。それがこの日の伊藤氏の報告を聞くことでかなりクリアになったような気がするので、ここではとりあえずそのロジックを明らかにした後で、改めてそれを批判的に検討することにしたい。

 ただし、以下の議論の整理はあくまで僕自身の理解によるものなので、伊藤氏の報告とは別物としてお読みいただきたいと思う。伊藤氏の報告については幸い当日のパワーポイントファイルが公開されているので、興味のある方はぜひそちらも直接当たってください。
http://scid.stanford.edu/events/PanAsia/Papers/June%202/Ito%206-2-06.ppt

 さて、日・中・米の利害を調整する一種の「政策レジーム」としてアジア共通通貨がもちだされる背景とは何だろうか。まず指摘しなければならないのが、それが、来るべき「ドル危機」への予防的対応という側面を持っていることである。

 アメリカ経済は巨額の経常収支赤字を日本・中国をはじめとした東アジア諸国からの資金流入によってファイナンスするという状況が続いているが、日本を除く東アジア諸国は基本的に新興工業国であり、経済成長の過程で経常収支が大きな黒字のまま推移するとは考えにくい。このことから、このままではいずれ大幅なドルの下落(「ドル危機」)など何らかのカタストロフが避けられないのではないか、という議論が現在アメリカの著名な経済学者の間で盛んに行われている。

 この「ドル危機」の可能性を指摘する議論のうち代表的なものがモーリス・オブストフェルドとケネス・ロゴフによるこの論文だろう。オブストフェルド=ロゴフは、現在のアメリカの経済収支赤字のレベルがGDPの約6%であるとして、それを約1%にまで引き下げるためには、ドルが実行ベースで20−40%ほど(より短期間で調整が行われる場合はそれ以上)切り下げられなければならないという試算を示し、そのような大幅な為替調整が短期間で行われる場合のアメリカおよび世界経済に与えるインパクトについて警鐘を鳴らしている。

 ちなみにこのようにたかだか数%の経常収支赤字の縮小に何十%もの通貨の切り下げが必要になるのは、一言で言えばアメリカ経済が不十分にしか国際経済に統合されていないから、すなわちアメリカの国内需要の多くが非貿易財で構成されているからである。この辺のロジックについてはクルーグマンによる非常にわかりやすい解説(と訳)があるのでそれを参照してください。
http://cruel.org/krugman/fxrate.pdf

 また、オブストフェルドと同じバークレー勢のバリー・アイケングリーンも、同じように現在のアメリカの経常収支赤字とドルの水準が持続可能ではない、という立場から、(東)アジア諸国アメリカ・EUの三者による政策協調によってこの不均衡を是正する必要性を説いている。つまりアメリカは財政赤字を減らしてISバランスを改善させろ、EUは農産物市場をはじめとしてもっと市場を域外に開放しろ、そして(東)アジア諸国は通貨制度の柔軟性をもっと高めろ、というわけだ。
http://www.econ.berkeley.edu/~eichengr/policy/cityuniversitylecture2jan3-05.pdf

 これに対して、より楽観的なシナリオももちろん存在する。例えばMichael P. Dooley, David Folkerts-Landau, Peter Garberによるこの論文では、現在のアジア諸国の事実上のドルペッグと、それを支えるために膨れ上がった外貨準備がアメリカの経常収支赤字を支えている現在の国際通貨体制は、「ブレトンウッズver.2.0」ともいうべき一種の固定相場制といってよいものだとされる。このレジームの下では、アジアは為替レートおよび国内物価水準が安定するというメリットがあり、アメリカは為替レートの調整に気をとられることなく国内経済の安定に専念できる、という点でお互いにハッピーであり、したがってこのレジームは持続可能なものである、というわけだ。
 これほど楽観的ではないにせよ、アジアの事実上のドルペッグ制採用を基本的に肯定する高橋是清ロナルド・マッキノンの議論も基本的にこれに近いかもしれない。

 一方、ポール・クルーグマンは、先日紹介した論文の中で、現在のドルの水準がファンダメンタルから大きく乖離している、という事実を投資家が十分期待の中に組み込んで行動していない限り、ドルは−まるでロードランナーを追いかけてがけから転落するワイリー・コヨーテのように−ストンと下落する可能性がある、と指摘している*1
しかし彼は同時に、たとえそのような「ドル暴落」が生じたとしても、現在のアメリカは例えば2001年当時のアルゼンチンとは異っており、それによって国内経済が深刻な影響を受けることはないだろう、という比較的楽観的な見通しを示している。

 
 ・・さて、このように多様な意見が飛び交っている中で、伊藤氏(あるいは吉冨勝氏なども同様の議論を行っている)は次のように主張する。
 オブストフェルド=ロゴフなどが試算するように、ドルの対アジア通貨に対する30%程度の切り下げがいずれ避けられないとして、その影響を最小限に抑える方法はないだろうか。確かに、それぞれの国の通貨が個別に変動するならば、ドルに対する約30%の通貨切り上げのインパクトは大きい。しかし、すでに日本を含む東アジアにおいて、域内の貿易比率がすでに約50%に達している現状を考えれば、もしこれら諸国の通貨がドルに対して一斉に切り上がるのならば、たとえ全体としての上げ幅が30%だったとしても、それぞれの国の実効為替レートの変化は約15%ほどですむはずだ、と。

 もちろんこのような「一斉の切り上げ」を行うには東アジア域内での政策協調が不可欠である。そして、このような政策協調は単に域内の為替の安定だけでなく、東アジア各国の安定的な金融政策の運営にとってもメリットがあるとされる。その際に鍵になるのが域内各国によるインフレ・ターゲット政策の採用である。たとえば伊藤敏隆・林伴子による近著『インフレ目標と金融政策』ISBN:4492653767 第3章「インフレ・ターゲティングと為替政策」では、インフレターゲット政策とバスケット・ペッグ制との両立可能性が検討されている。同書によれば、現在ドル・ペッグ制を採用している域内各国がより柔軟なバスケット・ペッグ制に移行するには、各国が同時にバスケット・ペッグ制に移行し、また域内で共通のバスケットを持つことが必要になる。インフレ・ターゲット政策に代表される透明性の高いマクロ経済政策の採用は、そのような域内政策協調のための枠組みを提供しうる、というわけだ。

 また、そのような共通の通貨バスケット採用などの域内金融政策協力により、為替変動のリスクを軽減することが、域内(バスケット)通貨建てでの債券発行を可能にし、域内の債権債務関係がドル建てで行われるという、東アジアにとって宿痾とも言うべき「通貨のミスマッチ」(これはアイケングリーンらの言う「原罪」の概念に近いように思われる)から脱却し、域内の為替・金融市場のさらなる安定化をもたらすことが期待されている。

 こうしてみるとドルの切り下げ⇒アジア全体でのそのインパクトのシェア⇒アジア域内での政策協調⇒域内での共通バスケットの採用⇒アジア共通通貨へ、というこの流れは、①「ドル危機」への予防、②アジア域内での資本調達の円滑化、③安定した国内経済運営(インフレ・ターゲット)と両立する国際通貨体制の実現、といった短期から中長期の政策目標までを組み込んだ、かなり周到な議論のように思える。だがそこに落とし穴はないのだろうか。

 というわけで、より突っ込んだ検討は次回に。ご意見お待ちします。

*1:先日紹介したクルーグマン論文の中で、この「ワイリー・コヨーテ効果(?)」の厳密な数理モデル化が行われているので、興味がおありの方は参照してください