梶ピエールのブログ

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『マルクスの使いみち』の使いみち

マルクスの使いみち

マルクスの使いみち

 なんか、不遜なタイトルですみません。この本は既に多くの人があちこちで感想を書いているようだけども、とりあえず自分なりの関心にひきつけて読み、今まで断片的だった知識を整理する意味で「使え」そうだ、という意味をこめてみました。

さて、個人的にはやはり二章の搾取をめぐる議論のところが面白かった。吉原氏自身による解説における以下の箇所が両者の立場についての簡潔な説明になっていると思う。

http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/usagemarx.htm

生産的資産の乏しい個人はそれが豊かな個人に比して交渉力が弱くなる可能性がある、まさに労働者と資本家の関係のように。ここまで突き詰めてみると、平等よりも自由が重要なのだという議論にしても結局、生産的資産の不均等な所有関係という分配の公正性問題に関わらざるを得ない話になる。実際、生産的資産の不均等な所有関係という分配の公正性問題を問うアナリティカル派の動機の一つは、そうした不均等に基づく経済的意思決定ならびに政治的意思決定における少数の富者の支配的影響力の行使の存在に批判のメスを入れるために他ならないのである。そして、アナリティカル派の市場社会主義の構想は、そのような意味での支配の問題を解消する意義を持つものとして位置づけられよう。しかしこの結論は、合意の有無に基づく強制労働からの解放論者たちにとっては受け入れがたいかもしれない。分配の公正性問題に還元されない固有の問題がある筈だ、と。

 僕自身は神戸大出身であるにもかかわらず置塩経済学についてはほとんど勉強しておらず(学部に入学した直前に退官されていた)、ローマーについても『これからの社会主義』をパラパラと眺めた程度なのだが、それでも本書での議論を面白いと感じたのは吉原氏の議論の中でローマーと同じくらい重要な位置づけを与えられている、ボールズ=ギンタス(の一派)が、比較的親しんできたスティグリッツらの情報の経済学を用いた分析をかなりの程度議論のベースにしていることがわかったからである。

 特に、開発経済学の重要なトピックの一つである「分益小作制」の例は、正統的なマルクス主義と(吉原的)アナリティカル・マルクス主義の立場の違いを理解するうえでも有用だろう。「分益小作制(シェア・クロッピング)」とは、地主が小作人に土地を貸し与え、その収穫物を一定の比率で分け合う、というもので、全世界で長い歴史を持ち、土地改革が行われていない地域では現在でも非常に広範に観察される制度である。定額借地制に比べれば小作人に農業生産を増やそうとするインセンティブが働かないように見えるし、賃労働者を雇う大農場経営の方が農業の形態としては近代的にみえる。というわけで、伝統的なマルクス主義的な歴史学においては、この分益小作制は封建的な支配関係に基づいて地主が小作人を「搾取」する、資本主義の発展によって消えていくはずの前近代的な制度であるととらえられるのが一般的だった(はずだ。僕もそれほどよく知らないので)。例えば、こういう説明が典型的ではないだろうか。

 しかし、現在の「情報の経済学」をもちいたミクロ的基礎を持つ開発経済学(代表的な解説書としてはバーダン=ウドリー(福井他訳)『開発のミクロ経済学東洋経済新報社がある。でも在庫切れ!)では、この制度に全く異なった解釈を与えてきた。

 すなわち、市場が不完全で、気候の影響などによる農産物生産の変動に対する社会的なリスクシェアリングの仕組みが整っておらず、また地主が小作人に対して契約どおりの労働を行わせる保証がない(情報の非対称性によるプリンシパル=エージェント問題)状況の下では、分益小作制は地主と小作人の双方にとって合理的な選択の結果でありうる、というのがその結論である。上記のような条件の下では、定額借地制は小作人にとって不作の時のリスクが大きすぎ、また完全な賃労働では地主の目を盗んで仕事をサボろうとするインセンティヴが働くからだ。この「リスクとインセンティヴのトレードオフのもとでの地主と小作人合理的な交渉」の結果、という分益小作制の理解に道筋をつけたのが、スティグリッツの1974年の有名な論文("Incentives and Risk-sharing in Sharecropping," Review of Economic Studies, 41)である。そして、いまやその理解に沿った膨大な数の実証研究が行われており、世界各地で行われている小作制度や土地所有制度のさまざまなバリエーションについて経済主体の合理的な行動からの説明が試みられ、目覚しい成果を収めている。
 しかし、これは伝統的なマルクス主義(ここでは松尾氏のような数理経済学マルクス学派ではなく、より歴史主義的な学派を念頭においている)の立場からは受け入れられない議論だろう。ある制度を「合理的」と認めることはすなわちその制度の存在やそこから帰結する不平等を肯定する立場に過ぎないのではないか、という批判が典型的なものとして出てきそうである。

 しかし、スティグリッツについていえば、彼の議論は単に分益小作制の「合理性」を指摘するだけでは終わっていない。まず、上記のような分益小作制のモデルにおいては土地所有が不平等であり、少数の地主と多数の小作人が存在する、というのが所与の条件となっている。その結果地主と小作人の間でP-A(プリンシパル・エージェント)問題が生じ、市場均衡によっては必ずしもパレート最適な資源配分が保証されなくなるわけだ。
 そうであるなら、政府が土地改革を行うことによって土地所有の極端な不平等を解消し、多くの自作農を創出すれば、公正の面で望ましいだけでなく、P-A問題による厚生損失は解消され、より効率的な資源配分がもたらされるはずである。スティグリッツは、この分益小作制のモデルを、厚生経済学の第二原理*1を批判し、政府による資源の再配分が「効率性」追及の面からも望ましいことがあることを示す例としてあげている(Whither Socialism? ISBN:0262691825、第4章)。つまり、「合理的」な結果だからといってそれに対して何もしなくていい、と言っているわけではないのだ。
 この場合、土地を取り上げられる地主に対しては政府がそれなりの金銭的な補償を行うことになるだろう。土地改革によって全体のパイは拡大するはずだから、これは比較的スムースにいくはずである。
 
 そして『マルクスの使いみち』での記述を読む限り、ボールズとギンタスなどもかなりこれに近い議論をしているように思える。このような「効率性」と「公正」とのインセンティヴ両立を図るという姿勢が、アナリティカル・マルクス派の基本的な考え方といっていいのかどうかはよくわからない(吉原氏にははっきりその姿勢があるようだ)。ただ、このような土地の再分配に関する問題に限っていえば、正統的なマルクス主義に比べボールズ=ギンタスや吉原氏のアプローチにはっきりとした理論的な優位性があるように少なくとも僕には感じられる。一つにはやはりこれまでの膨大な実証研究を理論と整合的な裏づけとして用いることができる、ということが大きい。またもう一つには現状分析からその改革策まで、あくまでも経済モデルから内生的に導くことができ、そこに「封建的な遺制」といった抽象的な、経済外の要素を持ち出す必要がない点である。これは、政治主義的な「気合い」に基づくのではない、より現実的な改革を行う際には非常に重要な点であろう。

 というわけで、以前のエントリid:kaikaji:20060224#p1でも紹介したように、サミュエル・ボールズが、分益小作制にかんする理論・実証研究の第一人者であるブラナブ・バーダンと共著を出していることもこれで納得できる。

 ただ、結局のところ、今日取り上げた土地所有の不平等という問題は「責任と補償」概念に基づいて資源の再分配を重要視するアナリティカル・マルクス派のアプローチが恐らく最もうまく機能する例なのだと思われる。それは恐らく、農業という産業自体が規模の経済が働きにくく、生産効率の点から見ても小農的な家族経営農業が最も効率的な場合が多い、という点が大きいだろう。生産手段をより平等に分配することが「効率性」の向上ももたらす、ということが比較的はっきりしているからだ。おそらく工業や第三次産業における資本の再分配を考える場合はこうはうまくいかないはずである。このケース、例えばローマー流の市場社会主義的企業のモデルなどについては、また機会があれば改めて考えてみたい。

*1:任意のパレート最適な資源配分は市場均衡の結果として実現できるというもので、「公正」の追求は市場に歪みを与えない一括税で行うべきであり、「効率性」の追求は市場に任せるべき、という二分法に根拠を与えるとされる