『世界日報』(台湾『聨合報』系の華字新聞)は『ブロークバック・マウンテン』が作品賞を逃したのがよほど悔しかったらしく7日付の新聞でもどこかのメディアから「『クラッシュ』はこの50年来でもっともぱっとしない受賞作だ」などという論説を引っ張ってきて載せたりしているが、あんまり見苦しい真似は当の李安さんにも迷惑だと思うのでたいがいにしてはどうかと思う。
さて、結局のところ『ブロークバック・・』がどうして賞を逃したのか、などということに僕としては大して関心はないのだが、この決定が「アカデミー賞の保守性を示すもの」とする見解には違和感を持つ。例えば『クラッシュ』と『ブロークバック・・』のどっちがリベラルな価値観に立脚しているかといったら圧倒的に『クラッシュ』の方だと思う。なにしろ保守派の団体から「最も俗悪な映画」として指定されているくらいだし。
というか『ブロークバック・・』は見方によっては「女なんかに男同士の友愛がわかってたまるかヴォケ!!」という究極のホモ・ソーシャル的な価値観を体現した映画だと言えなくもなく、その意味では保守的な感性を持つ人々の一部にも十分訴えるものを持っていると思う。町山智浩さんはこの作品を「正統的西部劇」と評していたが、さらにいうなら「究極の友愛とはなにか?」という古代ギリシャ以来の(?)普遍的なテーマを追求したものともいえ、だからこそあれほど全米で広く受け入れられたのだろう。というわけで、ホモ・ソーシャル映画になりそうでならない、かといってリベラルな価値観を押し付けるものでもない、という絶妙のバランス感覚の上に成り立っているのがこの映画が名作たるゆえんではないだろうか。
そういえば、李安監督は90年代にも台湾人とアメリカ人のゲイカップルと、上海から来たオーバーステイ娘との三角関係を描いた『ウェディング・バンケット』という映画を撮っている。
僕はこの作品も大好きなのだが、映画の雰囲気としてはこちらの方がよりリベラル色が強いといっていいだろう。それでもこの映画が単純な同性愛肯定の映画と一線を画しているのは、物語が決して台湾から出てきた両親達の儒教的な古い結婚観と、息子達のリベラルな価値観とが互いに対立しあうような形では進行していかないことだ。それどころか、「なんとかして息子に嫁を取らせて家系を絶やさないようにしなければご先祖様に申し訳ない」という両親の古臭い価値観は究極のところで勝利しさえするのだ。
同性愛といういかにも「リベラルっぽい」テーマを扱いながら、保守的で伝統的な価値観にとらわれた人々に対しても最大限の優しいまなざしを投げかける、そういう点は『ブロークバック・・』とも共通しているように思える。李安監督の映画をそれほど多く観ているわけではないけれど、こういった異なる価値観の間での微妙なバランス感覚のようなものは他の作品にもある程度共通してみられるのではないだろうか。彼の作品が世界的に受け入れられているのも、おそらくその辺に理由があるのだろう。