梶ピエールのブログ

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『クラッシュ』

 で、その『クラッシュ』だが、もちろんいい映画であることは間違いない。すでに日本でも公開されているようなのでこれから色々レヴューも出てくるだろう。というわけで内容の紹介は省略して、若干の雑感をば。

 僕の理解ではこれはエスニックグループ間のディスコミュニケーションの悲劇を、それぞれのグループ内の「固有の事情」をしっかりと描くことによって浮かび上がらせた作品、ということになるだろうか。この映画の登場人物たちは一様になんらかの個人的な事情を抱えているが、それらの事情は一方でエスニックグループの刻印を色濃く押されたものでもある。しかしそれらの「固有の事情」は、映画の中で非常に丁寧に描かれるものの、他のエスニックグループには決して伝わることがない(もちろん、それは単に言葉の問題からだけではない)。そこから相互不信と悲劇が生まれる。
 観客はいわば「神」の視点からそれぞれのグループの事情を鳥瞰できるので、そういったディスコミュニケーションから生じる悲劇に心を痛めたり憤りを感じたりするわけだが、もし実際にその場に置かれたならば自分もそういった悲劇に巻き込まれるしかないことにはっと気付く。エンターテイメントとしての「救い」をきちんと用意しながら、一方で救いのない現実に対する「気付き」に対しても開かれている点がこの映画の非常に優れたところだろう。

 ただ、この作品でそうしても気になったのは、すでにブログなどで誰かが指摘していることだと思うけど、そこでのアジア系住民の描かれ方である。各エスニックグループについて観客の感情移入を可能にする「固有の事情」が描かれるのに対して、アジア系住民だけはそういった描写がなく、結果として何を考えているのかわからない、感情移入の極めて難しいいわばゾンビのような存在として登場するのだ。これを観た時、黒人底辺層のやりきれない日常を描いたスパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』のシーンをちょっと思い出した。この映画にも黒人コミュニティーで商売をする韓国系住民が登場するが、やはり金儲けのことしか考えない得体の知れない存在として描かれていた。この作品が撮られてからかれこれ15年になると思うが、その間こういったアメリカの社会派映画におけるアジア系住民の描かれ方がほとんど変化していないという事実には、やはりかなり複雑な気分になる。

 ただ、このようなアジア系住民の描写における「内面(固有の事情)」の欠如が、明らかな悪意や偏見に基づいたものだと考えるのもまた誤りだろう。恐らくは重要性はわかっていても「どう描いたらいいのかわからない」というのが本当のところではないだろうか。その意味では、無理をして誤解に満ちた描き方をするくらいなら初めからスルーしたほうがいい、という製作者の「良識」をそこに感じることも不可能ではないだろう。

 だが、僕の乏しい見聞からしても、特にカリフォルニアのようなところでアジア系住民と他のマイノリティの間の関係は、白人と他のマイノリティグループとの関係にも劣らないほど大きな緊張をはらむものになっているように思われる。例えば僕がよく行く華人系のスーパーでは、たいていレジに二人の店員がついているのだが、そこではレジを打つのがチャイニーズで、レジを打ち終わった商品を袋に詰めるがラティーノ(ヒスパニック系住民)、というはっきりとした役割分担が出来ている。おそらく、レジを打つ店員と袋詰めをする店員の給与が同じということはないだろう。華人系のスーパーやレストランはとにかく値段が安いので重宝しているのだが、その低価格がそういったヒスパニック系住民(黒人はほとんど雇われていない)の低賃金労働に支えられているのは間違いない。
 ヒスパニック系といえば、こういうこともあった。今年の旧正月にいつもよく行く韓国料理屋で夕食をとろうと訪れたところ、正月休みなのか経営者の韓国人夫婦が不在で、おそらくは全員メキシコ系の店員が店をとり仕切っていたのだが、普段は絶対かかることのないラテン系の音楽がガンガン店内に流れており、店員同士おしゃべりなどしながら実に楽しそうに働いていて、ああボスがいないのがよっぽど嬉しいんだなあと思った記憶がある。ちなみに頼んだチャプチェの味はいつもと同じだったけど。

 こういった現状を考えると、他の多くのマイノリティにとってアジア系住民が多かれ少なかれ金儲けしか考えない得体の知れない存在に見える、というのはある程度事実ではあるのだろう。だが、『クラッシュ』に話を戻すと、異なったエスニックグループからはどんなに得体の知れない「奴ら」にみえようとも、そのグループの内部には必ず通約可能な「固有の事情」が存在している、というのがこの映画の投げかけたメッセージだったはずだ。その意味で、この映画の中で「通約可能な内面を持つ諸エスニシティの輪」から結果的にアジア住民だけが外されてしまったことには、やはり単純に残念だなあ、という感想を持つのである。個人的には、それこそ李安あたりがいつかこの問題に正面から取り組んだ映画を撮ってくれないかなあ、などと期待したりしているのだが…