梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

イギリス資本主義論とアジア工業化

 id:odanakanaokiさんのブログで予告編が連載されていた「名著再訪・20世紀日本の経済学編」は今から本格連載が楽しみな企画だ。予告編でこれだけためになるのだから、実際活字になったものを読むとさぞかしためになることだろう。

 その中の1冊、川北稔『工業化の歴史的前提』。
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20060125#1138109380

 西洋史学界の泰斗でウォーラステインの紹介者としても知られる川北氏が、従属論=世界システム論の成果を取り入れてそれまでの主流パラダイムであった大塚史学=比較経済史学派とは異なる「経済成長、帝国、ジェントルマン」をキーワードとしたイギリス資本主義像を描き出し、結果的に後の「ジェントルマン資本主義」論を先取りしていた、という指摘は非常に興味深かった。

さて、僕は一時期ある事情があって「帝国」関連本マニアになっていたことがあって(その辺の事情についてはid:kaikaji:20041208参照)、その時にケイン=ホプキンスの『ジェントルマン資本主義と大英帝国』にも一応目を通したことがあるのだが、その上で川北本についてちょっと気になるのが、そのアジア工業化論に対するスタンスである。

 僕のあやしい理解では、従属論・世界システム論は、確かにイギリスの工業化において植民地・半植民地との関係を重視しているものの、両者はあくまでも支配と従属、搾取と被搾取の関係にあることが強調される。つまり、アジアを含む植民地・半植民地は、本国にとっての安価な第一次産品の供給地の位置に留めおかれ、本国の工業資本にとって潜在的な脅威となる現地の工業化は結局のところ抑圧される、という理解が標準的だったのではないだろうか。一方、比較経済史学派の「資本賃労働関係の成立、中産的生産者層、国民経済」を重視する立場からも、前近代的な統治システムの残滓が根強く残り、「国民経済」の形成が遅れ、ブルジョワジーも近代的市民社会も育っていないアジアは、基本的に工業化のための基盤が存在しない、と結論付けるのが(一時期まで)支配的だったように思える。

 つまりイギリス本国の工業化のメカニズムの理解に関しては、従属論・世界システム論は確かに比較経済史学派と一線を画していたものの、アジア(を含む第三世界)を基本的に「停滞・非搾取・自立性の欠如(従属)」として捉えるという点では、むしろ両者は一致している、とはいえないだろうか。

 この点、ケイン=ホプキンスの「ジェントルマン資本主義」論の画期的だったところは、イギリス帝国主義の担い手とされるジェントルマン=シティに代表される金融資本が、アジアの自立的な工業化とは利害対立関係になく、むしろ共存関係にあることを示したことにある(むろんそれだけではないだろうが)のではないだろうか。つまり、イギリス帝国主義は、その「周縁」地域に対し必ずしも剥き出しの権力行使を行うのではなく、軍事面では現地軍の再編を通じた「安価な支配」を行い、また経済面ではその資金力と情報収集力に根ざした、「(金本位制などの)ゲームのルール」の策定者となることで、あくまでも「構造的権力(ソフト・パワー?)」を行使し、そこから利益を引き出そうとした。このようなイギリス帝国主義の周縁地域への関わり方は、域内の秩序形成を自前では行えない東アジア諸国にとっても、工業化のための「公共財」の供給という点で一定のメリットを持つものだった。

 ・・このような「ジェントルマン資本主義」論の理論構成は、ちょうど同じ時期に注目を集めるようになった浜下武志、杉原薫といった人たちによるアジア域内貿易圏の研究、あるいはポメランツなどによる数量史的なアジア経済史研究、といった動きと抜群に「相性のいい」ものだった。また東アジア諸国の急速な経済発展という現実の動きともあいまって、イギリス帝国主義研究とアジア工業化・交易圏の研究、および域内での「ネットワーク」を重視する華人経済史研究などにおける相互の交流が急速に進んできている、というのが近年の流れだと思う。
 
 このように考えると、アジアの自立的発展・工業化への評価に関する、従属論・世界システム論と「ジェントルマン資本主義」論との違いはやはり無視できないように感じる。その点、川北さんの『工業化の歴史的前提』における、あるいはその後のスタンスというのはどうなっていたのか、ちょっと気になった、という次第である。
 さて、どうなんでしょうか。