梶ピエールのブログ

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映画の英語

 アメリカの映画館に足を運ぶようになってから、その映画が面白いか面白くないか、ということのほかに、「その映画の英語が聞き取れるかどうか」ということが重要なポイントの一つになっている。例えば『ミュンヘン』『SAYURI』は登場人物が(あるいは実際の俳優も)英語のネイティブスピーカーではないという設定なので、これまで観た映画の中では比較的台詞が聞き取りやすいほうだった。もちろん、その「志」の高さには大きな差があって、前者ではユダヤ人がヨーロッパ各地に住むパレスチナ人を探し出して殺す話なので登場人物たちが発音のはっきりした、時にぎこちない英語を話すことは重要な意味を持つし、時には言葉の壁によるディス・コミュニケーションが効果的に描かれるのに対し、後者ではそういった演出上の効果とは全く無関係に、ただ撮るほうにとっても見るほうにとっても「便利」だからという理由でだらしなく英語が使われるだけなのだが(ただ桃井かおりの話す英語が、どう聞いてもわれわれが知っている桃井かおりのしゃべり方以外の何物でもないのは面白かったが)。

 それに対して、映画自体は文句なくいい作品なのだが英語が全然聞き取れなかったのが例えばアン・リー(李安)*1の『ブロークバック・マウンテン』で、もともとワイオミングの田舎が舞台で、特に主人公の一人は無骨でモゴモゴしたしゃべり方しかできないという設定なので、僕の英語力では絶望的なくらい何を言っているのかわからなかった。まあ、DVDが発売されたらもう一度字幕つきで観ようとは思っているけれど。それにしても感心するのはこの作品を撮ったのが台湾生まれのアン・リー監督だと言うことで、ネイティヴではない人間がこういう訛りまくった英語の台詞について細かい演出をしたりするのはとても大変だっただろうと思う。アメリカ人と台湾人のゲイカップルを描いた『ウェディング・バンケット』などを思い返してみても、アン・リーと言う人は「登場人物がどのような言葉をしゃべるか」ということに非常に敏感な監督だという印象がある。典型的な外省人の父親と娘達の物語を描いた『恋人達の食卓』も、最初に見たときはこちらがあまり中国語ができなかったので意識しなかったが、今度観る機会があったら台湾語とマンダリンの使い分けがどのようになされているのかに気をつけてみてみたい。そんなアン・リーが、『SAYURI』が恐らくは相当意識したであろう(しかし出来の上では格段の差がある)『グリーン・ディスティニー』をあくまで中国語で撮ってなおかつアメリカでヒットさせたのは、彼の登場人物がしゃべる言葉へのこだわりとおそらく無関係ではないだろう。

*1:この人もユン・チアンと同じで名が先、姓が後が定着しちゃってるが、個人的にはイングリッシュネームを持たない中国・韓国系の人名は姓が前、名が後で統一したほうがいいと思う。アンというイングリッシュネームを持つ中国系女性リーさんと混同しないためにも。