先日のエントリid:kaikaji:20051009、id:kaikaji:20051011#p2の続き。
さて、これまでFryerの'Acting White'に関する研究比較的詳しく紹介してきたのは、問題設定といい、方法論といい、非常にアメリカらしいものを感じたという点で印象に残ったからだが、必ずしも感心したというわけではない。むしろ、どうも腑に落ちない思いが強く残る。
以下の感想は、基本的にゲーム理論(およびアメリカの人種問題)の素人としてのものなので、そのつもりで読んで下さい。
まず抱いた疑問の一つ目が、研究の問題設定自体に関するものだ。そもそもアメリカの人種問題の中で、'Acting White'という現象は、ことさら取り上げる必要があるほど深刻な問題なんだろうか。社会的にみて圧倒的に問題なのは、やはり成績が悪い層の教育問題をどうするか、ということのほうではないのだろうか。
確かに、Fryer氏も少し触れているように、コミュニティからの排除が有色人種の成績優秀な少年に一定のストレスを与え、よりハイリスクな行為(喫煙、飲酒、親に嘘をつくなど)に向かわせる、とか、エリート・中間層の有色人種が、成人後も'Acting White'であり続け、地域の教育活動に従事したり、有色人種の地位向上などに貢献する活動を行ったりしない、という現状があるなら、それはやはり問題かもしれない。しかし、このペーパーでは、'Acting White'の実態が周到に実証されているのに対し、それがどのようなデメリットをもたらすのか、を示すようなデータについては何も触れられていない。少なくともそういった、'Acting White'による社会的厚生の損失が実証されない限り、'Acting White'の研究を積極的に評価はできないような気がする。
もう一つは、仮に、'Acting White'による社会的厚生損失が明らかになったとして、その解決というか政策的なインプリケーションはどうなるのだろうか。Fryer氏のモデルからは結局、有色人種のコミュニティの閉鎖性が問題であり、それを改めるべきだ、という結論しか出てこないように思えるのだが、それでいいのだろうか。こういったモデルのインプリケーションは、アファーマティブ・アクションに対する見解にも影響を与えそうだ。これに関しては、本当はFryer氏自身のアファーマティブアクションについてのペーパーを読んでから評価すべきだろうが、ちょっと今その気力がでないでいる。
以上のような疑問を抱くわけだが、困ったことにこちらのモデルの理解に問題があるのか、あるいはアメリカの人種問題の理解が不足しているからか、それともやはりFryer氏の研究自体に問題があるのか、こちらの力不足で判断がつかない。まあ、これは僕がFryer氏の問題意識を十分に理解していないせいで、一つの研究論文だけでそれを判断することは土台無理があるのだけど。興味深いテーマに切り込もうとしている非常に優秀な研究者であることは間違いなのと思うので、拙文を読んで興味をもたれた方はFryer氏の他の仕事もフォローしてみてください(そして僕の理解がおかしい点があれば指摘してください)。
ただ一つ思うのは、同じ「差別」の問題を扱った数理モデルでも、前回少し触れたMatsui=kanekoのモデルおよびそれについての松井彰彦氏の解説は、その問題意識が僕などにも非常にわかりやすかったわけで、それに比べて'Acting White'のモデルに対する腑の落ちなさはいったいなんだろう、ということだ。誤解を恐れず言えば、そこに「差別」の問題に対するアメリカ人と日本人的のある種の感性の違いが現れているような気がしてならない。あまりわかったようなことを書くのも気が引けるのだけど、一見無機質にみえる数理モデルが実は人間くさい論理に支えられているということを、これらの例を通じて、少し垣間見たような気がしている。