梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

白人らしく振舞う(続)

先日のエントリid:kaikaji:20051009の続き。

 さて、以上説明してきたような'Acting White'と呼ばれる現象にはさまざまな解釈が可能なように思える。たとえば、次のような解釈は最も「自然」なものの一つではないだろうか。

1.(環境、所得、両親の教育水準などの要因により)有色人種全体の学校での成績の平均は白人より低い。
2.成績が上位の学生の中に有色人種が占める比率は、成績が下位の学生における比率よりも高い。
3.学生は、成績がほぼ同じもの同士で遊ぼうとする傾向がある
4.成績のよい有色人種の学生は、成績の悪い有色人種の学生に比べ、より多くの白人の友人を持つようになる。


 このようなロジックだと、何よりもまず人種間で大きな成績の格差があることが'Acting White'の原因だ、ということになる。しかし、Fryerはこのような成績のよい学生が自発的な選択の結果「白人らしく振舞っている」という説明では、この現象が公立学校では顕著に見られるのに私立学校ではあまり見られないことや、人種が混在している環境でより顕著であること、などが説明できないとし、代わりに「コミュニティが頭のよい学生を排除している」という側面を重視する。それを経済学的に精緻に展開したのが、two-audience signaling modelによる'Acting White'の説明である。モデルについてあまり詳しい紹介はできないが、とりあえず議論の流れを簡単に整理しておくと、


1.個人、企業、同一人種のコミュニティの三つのプレイヤーからなるモデルを考える。個人について、'school years' 'employment yaers'の二期間の行動を考える。
2.各個人はその'school years'において、 生涯における効用水準を最適化するように、その資源(時間・費用)を娯楽、勉強、コミュニティへの貢献の間で分配する。
3.個人の生まれつきの能力と'school year'での勉強量によって教育にかかるコストおよび'employment yaer'での賃金水準が決められる。
4.コミュニティは、コミュニティへの帰属意識が低い者を受け入れることで損失を受ける。そのため、各個人に対し'school years'および 'employment yaers'でそれぞれ共同体への「貢献」を求め、それに応じた者のみをコミュニティに受け入れる。
5.他の条件が同じならば、コミュニティに受け入れられたほうが、受け入れられない場合よりも個人の効用水準は高くなる。
6.各個人は、'school years'でコミュニティに受け入れなかった場合、'employment yaers'でも受け入れられることはない。

 このようなモデルの結果、各個人の能力に応じてその教育とコミュニティへの貢献に変化が生じる、という「均衡」が導かれる。そして、一定水準より能力の高い学生は'school years'のうちにコミュニティから排除されるという結論が得られるのだ。
 この結果を直感的に説明するなら、能力が低いあるいは普通の学生は、コミュニティから排除されることによる効用の低下を恐れてコミュニティへの貢献を行う(あまり勉強しない)のに対し、高い能力を持った学生は、教育を受けることによる高い賃金によって十分な効用を得ることができるので、コミュニティへの貢献を惜しんで勉強する(その結果、コミュニティから排除される)ということになるだろうか。

 以上、このモデルの最大の特徴は、各個人の友人の選択に関する何らかの特殊な仮定を設けなくても、各プレーヤーの合理的な行動から成績のよい学生だけがコミュニティから排除されるという結果が導かれることだ、といっていいと思う(さらに続く)。