梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

しつこく、ルイスモデルについて考えてみる。

 なぜこんなにこだわるかというと、ルイスモデルは特にアジアの経済発展を考える上で実に射程が広い、「使いがいのある」ツールだと改めて感じたからである。たとえば杉原薫氏は確かその主著のなかで、20世紀の初頭における東アジアの経済発展をもたらした要素として域内貿易の深まりと共に、国内において何らかの余剰労働力の吸収メカニズムが働いたことを重視していたし、また吉川洋氏はルイスモデルに需要サイドの分析を付け加えることで戦後日本の経済成長に関する非常に説得的な議論を展開した。いずれも、労働力が過剰な状態が作り出されそれが安価な(限界生産性より低い)賃金水準で工業部門に吸収されることで資本蓄積が持続的に行われる、という基本構造は変わらない。


 では、ここで発想を変えてみよう。ルイスモデルは、基本的に「人口過剰社会」における工業の持続的成長のメカニズムを説明するツールであった。では、ルイスが想定していたのとはまったく逆のケース、現在の日本のような「労働力過少社会」あるいは「人口減少社会」ではどうだろうか。ここでも、ちょうどルイスモデルが想定していたのとは「逆」のメカニズムが働く、と考えれば、そういった「人口が減っていく社会」で具体的にどんなことが生じるかを考えるために、やはりルイスモデルは「応用」できるのではないだろうか。

 こんな妙なことを考えたのも、少し前小田中直樹さんid:odanakanaoki:20050714による松谷昭彦・藤正巌『人口減少社会の設計』(中公新書)に関する書評メモを読んで、元の本を読んでいないにもかかわらずずっと気になっていたからだ。

(2)少子化さらには人口減少の時代を迎えつつある日本において、ちゃんと制度設計すれば人口減少は「幸福」をもたらしうるから怖くないと説く書。「幸福」を「労働時間あたりの所得が多いこと」(16-7ページ)と定義したうえで、マクロ経済学の枠組みにのっとり、人口減少社会では

人口が減る
労働力が不足する
投資が減る
(非効率な投資から減るので)投資効率が上がる
生産性が上がる
(投資は減っているので)労働分配率が上がる
単位時間あたり所得が増える
というメカニズムが働き、人々は幸福になりうる、と主張する。

 この流れを小田中さんは「あまり頭に入ってこない」とおっしゃるのだが、以下のようには考えられないだろうか。
 原本を読んでない状態で議論するのは乱暴だというのは承知の上だが、とりあえず上の議論で想定されているのがコブダグラス型の生産関数であるという前提で進めよう。すると完全競争状態では労働・資本の分配率はそれぞれ労働・資本に対する生産の弾力性に等しくなる(また、それぞれの合計は1になる)が、これは普通所与であると考えられている。だから、上記の議論で「労働分配率が上がる」と書いているのは要素市場が不均衡であるなどの理由で完全競争が達成されず、そのため生産の弾力性を上回る水準に労働分配率が決定される(=労働の限界生産性を超えて賃金が支払われる)ということだと理解しておこう。

 そうだとすると、上記の「人口減少社会」における労働分配率上昇のメカニズムは、吉川洋氏が戦後日本について主張する「ルイス型成長モデル」のちょうど逆のメカニズムとして理解できるのではないだろうか。

 吉川による「ルイス型成長モデル」の骨子とは、だいたい以下のようなものであったはずだ(これも手元に著書がないのだが)。
 すなわち、「過剰労働力」の状況の下での本格的工業化の開始→都市近代部門への労働力移動→近代部門における労働分配率の低下(伝統部門から留保賃金の低い労働力が供給されるため)→近代部門における資本分配率の上昇→更なる投資の増加、という供給サイドにおける流れと、地方から都市近代部門への人口流出→世帯数の大幅増加→工業製品への需要増加→工業部門の投資増加という需要サイドの流れがうまくかみあって、高成長が実現する、というものだ。

これに対して、いわゆる「人口減少社会」では、
人口減少→需要減少→生産減少→労働力は減少しているにもかかわらず資本ストックは急には減らないので、一時的に「過剰資本」の状態になる→資本分配率が減少する→労働分配率が増加する→人々はより「幸福」になる!

 要するにルイス型経済成長の時代とは、基本的に労働の分配率が減少していく分を資本が自分の「取り分」とし、それをもとに持続的な資本蓄積を行う(わかりやすくいえば労働者を搾取して工場を拡張していく)社会であったのに対し、人口減少社会では、むしろ厳しい状況におかれ規模の縮小を余儀なくされる「資本」の取り分を、労働者が少しづつ取り戻す過程が想定されている、というように理解してみたのだが、いかがだろうか。

 ただし、上記のような理解だと、資本ストックの調整が行われて完全競争に近い状態が再び実現した場合、資本・労働の分配率は元の水準に戻ってしまう。ということは人口減少社会で労働者がそれまでより「幸福」になるのは資本ストックが調整されるつかの間の間、ということになってしまい、結論としてはあまり面白いものではなくなってしまう。ということは、やはり上のような理解は間違っているんだろうか。しかし、人口の変化によって生産の労働弾力性そのものが変わってしまうとも考えがたいのだが…