梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

ディレンマ・その2

 先週末は中国からお客さんが来ていて、神戸の案内やらシンポジウムの準備やらで結構忙しかった。というわけで以前にも同じ手を使ったが、頭の中を中国語にしなければいけない、というのを言い訳にして更新もサボっていたという次第。

 さてシンポジウムが無事終わって、もう一人報告者としてお呼びしていたアジ研の人と、園部哲史・大塚啓二郎『産業発展のルーツと戦略―日中台の経験に学ぶ』ISBN:4901654349 についての話になった。


 昨年の日経経済図書文化賞をとった話題作なので内容を知っている人も多いだろうが、この本の特徴は日本・台湾・中国におけるそれぞれ条件の異なった産業集積の実例について、経済発展論としての普遍的なモデルを取り出すべく、大胆な類型化を行っているところにある。
 たとえば、ある産業が量産体制から質的向上に至る過程における、「革新的企業」(シュンペーター的な「新結合」を実現して一時的に独占的な利潤をあげることのできた企業)の果たす役割を、その産業での創業者にあたる老舗の企業、およびそれらに対する追随者の位置にある企業との関係において考察した章がある。そこで興味深いのは、台湾・台中市(工作機械産業)と中国・温州市(弱電器産業)という成立過程も技術水準も全く違う二つの産業集積地において、そのような「革新企業」の役割についてある種の共通点が見られるという指摘である。
 すなわち、後発企業である「革新企業」の参入によって市場には一時的に「一人勝ち」の状況が現れるが、老舗企業は比較的容易にそれにキャッチアップする能力を備えており、やがて利潤率で「革新企業」を上回る傾向さえ見せているのに対し、老舗企業の追随者にしか過ぎない有象無象の企業はその段階で大きく利潤を低下させ、やがて市場から脱落していく、という構図が、二つの産業に共通してかなり明確に見られるということを、精緻な計量分析を通じて明らかにしているのだ。

 問題は、この二つの産業の場合その技術レベルが違いすぎて、同じ「革新者」といってもその具体的なイメージは全く異なったものである、という点にある。要するに台湾の工作機械メーカーの場合、積極的な部品外注システムの構築を通じてコンピューター制御装置つきのNCマシンをいかに量産ベースに乗せるかどうか、というところに技術革新の核があったのに対し、温州における「革新企業」とは、スイッチなどの単純な電気器具の生産において、それまであまりに多かった不良品を減らすための検査方法の確立に成功した企業のことを指しているのである。もちろんそれまで他の企業ができてなかったことを実施できた、ということは画期的ではあるのだが、一般的な「技術革新」のイメージとはかなり離れている、というのが正直な印象ではある。おそらく、この二つの産業を同じ土俵の上で比較しよう、という考えは、中国あるいは台湾の製造業について地道なフォールドワークを行っている「現場派」の研究者からはなかなか出てこない発想ではないだろうか。


 さて、ちょっと前、鶴見良行さんがアジアを「歩きながら考える」のに英語一本ヤリだったのってどうよ、ということをめぐり、小田中先生と双風堂id:leleleさんとの間で興味深いやり取りがあった(id:odanakanaoki:20050701)。僕自身基本的に中国語なしでの研究活動は考えられないというスタンスなので、お二人の意見にはもちろん同意するのだけど、ただ、現地語ができない、英語一本ヤリの人だからこそできる発想というものもあるのかもしれない、ということは時々思ったりする。特にアジア諸国を初めとした途上国をフィールドに、現代の経済問題を分析対象にする場合には、その研究スタイルに固有の難しさはあるように思う。

 そのような「難しさ」としては、一つには、現地語の文献の渉猟がそれほど重要でないこと、そしてもう一つには経済学の抽象的・脱国境的な発想にとって、特定の地域の言語の習得という「自ら土地に縛られる」行為が時に邪魔に働くこと、があげられるだろう。これ自体は学問の持つ性格なのでいいとも悪いともいえないのだが、経済学の中には一国に深入りしないでクロスセクションのデータをできるだけたくさん集めて、そこから何か普遍的な結論を導き出すのがスマート、という発想が抜きがたくあるのは事実だろう。例えばスティグリッツ開発経済学の分野でも優れた業績を上げているが、彼がある特定の途上国、例えばインドの現実だけ見ていたらあれだけの成果が上げられたかどうか。もちろん、末廣昭さんのようにタイの地域研究から出発して、それを超える普遍的な議論を展開している優れた研究者もいるのだけど。

 ただし中国経済研究の場合、これまでは分厚い「現地語派」の研究者の層が存在していたこともあって、伝統的に現地語の取得が当たり前とされてきた。しかし、中国への注目が高まるにつれて、この分野でも急速に「日本語・英語一本ヤリ派」の進出が進みつつある(id:kaikaji:20050613)。もちろん、その中で「中国語派」も活発な研究活動を続けている。しかし、狭い業界を超えてインパクトを与えるような成果がそういった「中国語派」の中からどれだけ生み出されてきたか、というとどうも少々心もとないものがある。むしろ、近年は園部・大塚さんのように「日本語・英語派」の人たち方が次々とインパクトのある研究を発表している印象が強いのだ。

 ・・といっても何も鶴見さんの弁護をしようととか、これからの中国経済研究は中国語なんてできなくてもいいんだ、などというつもりは毛頭なくて、ただ「現地語派」の経済研究者、とくに(自分も含めて)若手の研究者はもっと頑張ろう、ということを再確認したかっただけなのではあるが。というわけで、あまりすっきりしないオチですみません。