梶ピエールのブログ

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ウチダ先生は(やっぱり)えらい

 最近、特に中国問題に関心を持ち出してからのウチダ先生のエントリにはとかくハラハラさせられることが多いわけだが、昨年出た『死者と他者』ISBN:4874154980 はやはり名著なのではないだろうか。内容的にはレヴィナスの問題意識を受け継ぎながら「死についての存在論的な意味を剥ぎ取ること」すなわち「死者との断絶を思い知ること」として「弔い」という行為を救い出そう、という議論を展開している点で、小泉義之『弔いの哲学』ISBN:430924193X と極めて似通った立ち位置にあるものとしてみなせるだろう。

 ただ、僕自身は、小泉本よりもこちらの方に多大な共感を感じた。これは、単に僕がウチダ先生の語り口のファンだということなのか、両者の間に微妙とはいえ無視できない思想上の差異があるということなのか、僕自身はレヴィナスのテキストを全然読んでいないこともあってまだうまく判断がつかない。ただ、以前小泉本を読んだ時に、少なくとも小泉氏自身にとっては、「死者との断絶」がそれほど困難な課題ではない、わりと個人の心の持ちよう次第で簡単になしうるものとしてとらえられているように感じられた点が少し引っかかったことを覚えている。そのことが、「亡霊」に捕らえられがち(「死」に存在論的な意味を読み込みがちな)な人々への「冷たさ」となってテキストににじみ出てきているような気がしたのだ。ウチダ本からはそのような「冷たさ」を感じることはなかったが、それはむしろ彼が「死者との断絶」をこの上なく困難なものとしてとらえているからではないだろうか。デリダによる有名なレヴィナス批判を、小泉氏は否定的にとらえているのに対し、ウチダ先生は肯定的に捉えているという点とも関係があるかもしれない。

 最近はネット上でも、やはりレヴィナスと『弔いの哲学』の影響が見受けられる高橋哲哉靖国問題ISBN:4480062327 のことがかなり話題になっているようだが、いわゆる「靖国問題」に対する内外の関心が高まりつつある中、ここにあげた三冊の微妙な思想上の差異について考えてみることも、哲学好きな人にとっては結構興味深いのではないかと思われる。

 さて、以下はどうでもいいことだが、このような抽象的な問題についての考察はすばらしいのに、現実の中国問題について語るときのウチダ先生の言説ははっきりいって滑りまくりなのはなぜだろうか。これは、どうも彼が好んで用いるレトリック、「中国に実在するウチダ的人物」の身になって考える、という思考法に限界があるような気がして仕方がない。要するに、ウチダ的な知識人、というものは実は中国にはほとんど実在しないのではないだろうか。たとえば中国でフランス現代思想を研究している人は「新左派」と呼ばれる人たちを中心にたくさんいるが、彼ら/彼女らが、「日本に実在する自分のような人間がこの問題についてどう考えるか」というような立場から発言する、というシチュエーションはちょっと考えられない。また「とほほ感」とか「おじさん的思考」とかいったウチダ用語もほとんど中国語には翻訳不可能なのではないかと思われる。ただし、これは偏見かもしれないので、もしお知り合いの中国人でこの人は普段からウチダ先生とそっくりのことを言ったり書いたりしている、という人がおられたら、ぜひご紹介願いたい。