各所で反響を呼んでいるarayaさんid:d-arayaにたいする稲葉さんid:shinichiroinabaのツッコミであるが、2ちゃんねるで行われているような左翼・ポストモダン叩きがどうの、というレベルではなく、社会科学における「実証研究」というものがもつ意味についての根本的な議論にまでに深められないもんかと思う。というのも、統計データを用いた実証分析に対する根本的な懐疑論というのは、別にポストモダン・思想系の人たちだけではなく、同じ実証研究といってもコツコツ企業などをめぐって聞き取り調査を進めていく「現場主義」タイプの研究者(いわば「ドブ板中のドブ板派」か)にも根深く見られるものだからだ。
大したものではないが統計データをいじることもフィールドワーク的なことも一応やってみたことがある者の実感としていうと、実証研究をやるということはとにかく「時間がとられる」ということである。これは、一部の傑出した才能や恵まれた立場にある人を除き、より問題意識を深めるための文献をきちんと読み込んでいる時間がなくなるということである。また、特に計量的な実証分析の場合は形式を整えれば何とかもっともらしい結果が出てくるので、そればっかりやっていると「深く考えなくなる」というのもある程度事実なのだ。ただ、優れた実証研究は、必ずその計量モデルの背景や、その限界についてしっかりと考えられているものなのだが。
そういう意味で、「データをいじる」タイプの実証研究に対する、文献研究なり理論研究なりをしている人からの(もちろん、「現場主義」の立場からも)突っ込みは、本来実証研究の側にとっても有意義なものであるはずだ。実証研究の「限界を知る」こともまた実証研究の大きな目的の一つ(やってみないと限界もわからない)であるからだ。もちろん実証研究の専門家同士の相互批判も重要ではあるが、あまりに狭い同業者同志だと重箱の隅をつつくような批判になりがちで、よりラジカルな批判はなかなか出てこないという問題点がある。本来、社会科学における理論研究とデータを用いた計量的な実証分析とフィールドワークは対立しあうものではなく、そのように相互に建設的な批判を行う分業関係にあるはずなのだ。
しかしそういった専門外からの批判が意味のあるものになるかどうかは、その批判が基本的な統計学などのリテラシーを踏まえたものであるかどうかによって大きく左右される。たとえば、「(現場に足を運ばず)データをいじってベタなコメントをつけただけのお気楽な研究」という批判をとってみても、「計量的な実証研究というものはお気楽なものだ」と一般化して言う場合と、個別の研究に対し「これはこういう点でお気楽な研究だ」と批判することは大きく違う。後者はそれなりに生産的だし、ある程度実証研究に対するリテラシーがなければできないものだが、前者のような一般的な批判にはほとんど意味がないと思う。
そして、実際に意味のある実証研究をやるには確かに膨大な時間を要するけど、基本的なリサーチ・リテラシーを身に着けることにはそれほどの手間と時間はかからない(はずだ)し、身に着けたからといって社会科学の分野における「ポストモダン派」とか「現場主義」とか言った自分自身立ち位置を捨てる必要もないはずだ。
・・以上はあくまでも一般的な話で、arayaさんと稲葉さんとの間での具体的なやりとりについては僕自身はどうこういうつもりはない。ただ、上記のような「(批判する相手のロジックやリテラシーを理解するための)ちょっとした努力」を惜しまなければ議論の「底が上げられる」のにな、という意味における、稲葉さんの「歯がゆさ」は僕なりに理解できるつもりである。
あと蛇足だが、実証研究に従事することの極めて現実的なメリットとしては、精神衛生上よいということがあげられることだろうか。データをひたすら入力するような単純作業はたしかにストレスもたまるが、やることが決まっているし結果もそこそこついていることがわかっているので、あまり鬱な方向にに向かうということがない。というかむしろ積極的に鬱に効く様な気さえする。その点は、むしろ思想史研究などやっている人の方がきつそうで、実証研究の方が「お気楽」な商売だと言えなくもないかもしれない。