震災十周年の日である昨日は、神戸の新開地に劇団アトリエサンクスの『のぶちゃん』という芝居を観に行った。といっても震災が直接テーマではなくて、ダムに沈む中学校とそこに10年ぶりに再開する青年達の物語。で、この芝居が震災とどうつながるのか、ということについては下記のサイトをご覧いただきたい。
http://www.geocities.jp/jinta1995/index.htm
正直なところ最近芝居はぜんぜん観ていなくて、2年前なぜかケラリーノ・サンドロヴィッチ作のミュージカルを観にいったきりなのだけど、今回の舞台は同じ歌あり・踊りありの舞台といってもストーリーといいテンポといい役者の個性の生かし方といい、大劇場で演じられたそのミュージカルより数倍面白かった。作・演出のワタナベさんははっきりってケラリーノなんかより才能あると思う。というわけで今後もっと大きくなってほしい劇団なので、この場でささやかながらエールを送っておきたい。
それにしても、昨日も現役で芝居をやっている友人に何人か再会したけれども、さすがにみんなもう「好きなことやっていられれば食えなくてもいい」という歳ではないんだなあということを実感して感慨深かった。研究者の世界もある程度似た状況があるといえなくもないが、役者の世界に比べりゃまだまだ甘い。なにしろ一公演のキャパが限られている小劇場演劇の場合たとえカリスマ的な人気を誇るような劇団であってもチケット収入だけでは逆立ちしても劇団員をみんな養っていけるだけの収入は得られないような仕組みになっているのだ。「努力の分だけ報われるべきだ」などという甘っちょろいことは言うまい。しかし、例えば昨日観た劇団のように、せめて十分な才能に十分な努力がプラスされた場合に、それがもう少し報われるような社会的な仕組みがあってもよいのではないだろうか。
浅羽通明が、たしか『教養論ノート』の中でこんな議論を展開していた。昔から芸事とか趣味の世界というのはその道に通じている(はずの)一部の玄人(胴元)が、彼らのように「なりたがる」広範な素人衆から金を巻き上げるあげる一種の「ねずみ講」システムである。で、(特に人文系の)学問の世界の仕組みも実は基本的にはそれと同じのだが、ただ他の芸事などと違うのは、学問の場合社会の中にその「ねずみ講」的構図を隠蔽する巧みなシステム、つまりあたかも学問や研究自身の有用性や権威が世間とは独立した価値として存在していて、胴元たち(=知のスター達からフツーの大学教授まで)は、あたかもその価値に貢献しているから生活を保障されているのだ、というように見せかけるシステムが公権力によって作りあげられていることだ、と。
もちろん、今の日本において、そのような「洗練されたねずみ講」のシステムにほころびが生じ始めていることは周知の事実である。その中で、「十分な才能に十分な努力がプラスされていながら報われない」若者が、他の芸事の世界と同じようにこの業界でも量産されつつある。
というわけで、芝居のようなよりシビアな芸事の世界で「才能+努力がきちんと報われるれる仕組み」の可能性について考えることは、実は今後の大学のあるべき姿について考えることにもつながってくのではないか、という気がしてしようがない。それは所詮、今よりももっと巧みなねずみ講のルールを考えることにしか過ぎないのかも知れないが。