旧来の友人であるmojimoji君がはてなを始めていたことを知り、「スティグリッツの新しい金融論読みまへんか」と呼びかけたところ、なんと稲葉振一郎さんまでwashimomazereと割り込んできたのでびっくり。稲葉先生、「一緒に読みませんか」というのは文字通り「関西でまた勉強会でも開きませんか」という意味だったのですが・・
まあいい、こうなったら恥をかくのを恐れずできるだけネット上でこの話題を仕掛けていくことにしようしていくことにしよう。
それで肝心のスティグリッツ本だが、とりあえずリフレ論争にひきつけて理解すると、すでにこれを読んだ人たちが指摘しているように、基本的には金融政策に銀行貸し出しが果たす役割を重視する「クレジット・ビュー」に立ち、金融政策ではI.フィッシャーが始めて唱えたとされる「デット・デフレーション」を重視する立場からリフレ政策を支持する立場、ということになるだろう。
さて、このデット・デフレーション論については、稲葉さんの『教養としての経済学』の「補論」で、デフレの原因を「債権の価格硬直性(銀行信用は相対取引なので、基本的に証券化して市場売買するということができない、ゆえに一般価格水準が下がっても債権価格だけは下落しないので、金融市場に不均衡が生じ、不況が発生する)」にみる議論だ、という的確なまとめがなされている。しかし、この議論を徹底させると、「もし金融市場の技術が発達して、銀行信用の完全な証券化とリスク評価に基づいた価格付けが成立したら、「債権の価格硬直性」はもはや存在せず、デフレ発生の根拠は消えてしまう」ことになる。これは、「デット・デフレーション」の議論が結局ケインジアンとしては不完全なものでしかないことを示している、というのもケインズはたとえあらゆる市場メカニズムが完全であっても、「貨幣愛」によって不況が生じる可能性を説いたはずだから、という鋭い批判を行っている。
で、このくだりは、読んだ時はなるほどと思ったのだが、スティグリッツの本も片手にあらためて読み直してみると突っ込みどころもありそうである。それはまた明日ということで。