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ヘーゲルと現代経済学

現代経済学のヘーゲル的転回:社会科学の制度論的基礎 (叢書《制度を考える》)

現代経済学のヘーゲル的転回:社会科学の制度論的基礎 (叢書《制度を考える》)

 「現代経済学のヘーゲル的転回」。このタイトルを見て、「なんじゃそりゃ」?と思う人が多いだろう。あるいは、今やすっかり廃れてしまったマルクス経済学を、そもそも「逆立して乗り越えた」はずのヘーゲル哲学までさかのぼって擁護しようとした時代遅れの書物だと思うかもしれない。だが、これはそういう本では全くない。
 本書は(マルクス経済学ではない)現代経済学の方法論的な弱点と、それに対するオルタナティブを「制度」と「倫理」の観点から真摯に問い直した研究として、後世に名を残すだけのインパクトと可能性を兼ね備えた本だと思う。ちなみに、このうち「制度」に関する議論は故・青木昌彦の研究に、「倫理」に関する議論は、主にアマルティア・センの議論にその多くを負っている。そして、この通常はあまり重ならないと思われている2人の「知の巨人」の業績を、相互に有機的に結び付けるための包括的なフレームワークを提供するのが、「巨人中の巨人」ヘーゲルの哲学だ、という訳だ。

 といってもやはりすぐにはピンと来ないだろう。青木昌彦は若いときは過激なマルクス主義者だったかもしれないけど、彼を世界的な研究者にしたのは方法論的個人主義に基づく応用ゲーム理論の業績だったはずだ。社会を「家族」や「市民社会」「国家」といった全体的なカテゴリーで捉えたヘーゲルの哲学とどう結びつくんだろうか。また、アマルティア・センは、人権の普遍性を説き国家による自由の抑圧によって人々の「ケイパビリティ」が失われることを批判する、どちらかというとカントっぽい、リベラルな主張をする経済学者ではなかっただろうか。つまり、国家の優越性を強調し、権威主義の象徴のようにとらえられることが多かったヘーゲルとは、どちらかというと対極にいる、というのが一般的な理解ではないだろうか。
 しかし、著者たちによれば上記のような理解はいずれもヘーゲル哲学を、そして青木とセンの業績を正当に理解していないことからくる誤謬である。たとえば、青木の「比較制度分析」とは、通常教科書的に理解されているように制度を各経済主体が利益を最大化した結果生じる「ゲームの均衡」としてとらえるものではなかったという。
 青木の晩年の仕事を読めば、彼がむしろ「制度」を個人の行動的な性向や戦略的行為の選択といったミクロな次元の現象と、ある行為の再帰的な出現やそれを通じたある種の「記号システム(日本の会社では年功序列が重んじられる、などの))」の形成といったマクロ次元の現象のインタラクションそのものを「制度」形成のプロセスと考えていたことは明らかだった。そして本書の著者たちによれば、このような「ミクロとマクロのインタラクション」の過程こそ、ヘーゲルが「連続」「遂行」「承認」という三つの原理によって個人間の相互依存性から生じる社会をシステマティックに理解しようとしたやり方を、より精緻化したものに他ならないという。
 また、アマルティア・センは『正義のアイディア』の中で、社会的な正義を実現するために、ある理想的なゴールを想定し、それを目指そうとする姿勢(超越論的制度主義)に厳しい批判を投げかけ、現実の社会や制度がより具体的な「不正義」を克服しているかどうかに注目する「実現ベースの比較」をより望ましい姿勢としてそれに対置させた。そして、この「超越論的制度主義」への批判は、ヘーゲルによるカント哲学に対する批判にその原型がある、というのが著者たちの主張である。つまり、ヘーゲルはもともとセンのように現実の比較を通じてよりプラグマティックに「正義」を実現しようとした、いわば「大人」のリベラリズムを体現した思想家だった、という訳だ。
 本書はまた、現代の認知科学行動経済学、神経経済学などの知見も積極的に取りいれながら、自然と人間、個人と社会のインタラクションというヘーゲル哲学のエッセンスに徹底してこだわることで現代経済学およびその周辺の諸科学をトータルに結び付け、さらにそれを倫理的に「基礎づけ」ようとする壮大な「心意気」に満ちている。野心的な研究だけになかなか一読してすっと頭に入るような本ではないけれど、これからの経済学や社会科学の方法論について少しでも懐疑的な関心を持ったことのある人であれば、ぜひ一度手に取ってみてほしい本だと思う、


正義のアイデア

正義のアイデア