梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

開発と社会体制(制度)など

 稲葉振一郎さん(id:shinichiroinaba)がDaron Acemoglu & James A. Robinson, のWhy Nations Fail について詳細な読書メモを書かれています。この本は大分前に読もうと思って購入していたたものの分厚すぎてそのままにしていたので、勉強になりました。

以下、http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20120901/p2より。

 一時期のいわゆる開発独裁(1980年代頃の開発経済学でいわれた「韓国モデル」)や、あるいは第二次大戦後のソ連の高度成長など、略奪的政治制度の下でも一定の経済成長がみられたが、Acemogluらによればそうした成長は持続可能ではない。それは後発性の利益などの好条件による短期的なものである。何より略奪的政治制度の下では、(仮に計画・指令型経済が弱く、自由な市場経済制度が優越していたとしても)創造的破壊による技術革新への許容度が極めて低い。それは既存の産業構造を揺るがすことを通じて、既得権益に対して破壊的にはたらく。政治体制を支配するエリートの経済的基盤が揺るがされることを、略奪的政治制度は許さない。それゆえ、略奪的政治制度の下では、一見、政府による統制が緩められ、自由な市場競争がある程度進んだとしても、そうした規制緩和の限界はすぐに訪れる。つまり、略奪的政治制度の下では、包括的、開放的な経済制度は持続可能ではなく、あるいは一定の限界内に押し込まれる。こうした理解に立ちAcomogluらは、たとえば中国の経済発展も、現在の政治体制の下では長期的には限界に突き当たる、と予想している。

持続的経済成長のためには、包括的政治制度と包括的経済制度の両方がそろっていることが望ましい、とは言えるだろうし、現実にこれまでに生起した持続的経済成長が、包括的政治制度と包括的経済制度の好循環を生み出し、それによって支えられている、ということもできるだろう。しかし、そうした成長過程のそもそもの端緒、離陸の過程においては何が起きたのか――僥倖によって包括的政治制度と包括的経済制度の双方がほぼ同時に発生したのか、それともどちらかが先行したのか、を考える際に、どの程度役に立つのか、はさだかではない。

乱暴に言うならば、集権的な権力の確立(略奪的ではあっても安定した政治制度)が、経済成長を少なくとも短期的には可能とするが、ただ必ずそうなるというわけではない。その上で、そうした短期的・一時的な成長の下である程度の実力(ただし暴力行使の能力を除く)を蓄積した社会的諸勢力が広範に連携すれば、革命≒包括的な制度セットの確立に成功する可能性が、わずかながら存在する、ということになるだろう。だから、包括的制度セットの確立においては、どちらかと言えば政治的変革の方が論理的には先行しなければならない、と言えようが、それが可能となるための条件は極めて厳しい。

こういったくだりを読んで、以下の学会誌の小特集の内容が関係しているかも、と言う気がしたので、とりあえずリンクしておきます。

比較経済研究 Vol. 49(2012) No. 1 小特集 非先進経済のタイポロジー 1
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjce/49/1/_contents/-char/ja/
比較経済研究 Vol. 49(2012) No. 2 小特集 非先進経済のタイポロジー 2
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjce/49/2/_contents/-char/ja/

 ちなみに、前者の特集には僕も「中国の経済成長と『分散型の開発体制』」と言うタイトルで拙文を寄稿しています。もしご関心があればご笑覧下さい。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjce/49/1/49_1_1_1/_pdf

論文要旨: 本稿の目的は,「非先進国(発展途上国)」の政治経済モデルとして最も代表的なものである,「開発体制国家」モデルをベンチマークとして,中国経済を「非先進国経済」の一つとして類型化を行うことである.市場経済の下で高成長を遂げる中国は,従来の「開発体制国家」モデルといくつかの前提を共有しながらも,その産業構造や技術進歩のパターン,さらには国家と経済活動との関係など,重要な点で大きな違いを見せている.本稿では,そのような中国経済の「型」を,「分散型の開発体制」と名付け,国家と社会との関係,市場競争の歴史的な特性,グローバル経済における位置づけなど,いくつかの観点から検討を行う.