梶ピエールのブログ

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日本は果たして中国化するのか?−足立啓二著『明清中国の経済構造』を読む(後)−

 (承前)。第三部「財政と貨幣の特質」は、財政と貨幣制度について。個人的には専門上最も関心を持って読んだところ。専制国家と封建社会との異なる性質は、財政の大きな影響力とそれに規定された貨幣流通の仕組みにも現れている。
 ここでは、貨幣のもつ二つの側面とその対比が強調される。一つは、ウェーバーなどによって強調された、共同体内の支払い手段としての貨幣=「内部貨幣」である。そしてもう一つの側面が共同体間の交易を仲介する手段としての貨幣=「外部貨幣」である。これはマルクスによって強調され、その後岩井克人柄谷行人貨幣論のよりどころとなったことで知られている。伝統中国の文脈では、前者を代表するのが銅銭あるいは元代に用いられた紙幣(紙製通貨)など、後者が銀であることはいうまでもない。

 さて、銀が通貨として用いられ始めたのは明代になってからなので、それまでの非常に長い時間にわたって銅銭のみが貨幣として用いられ続けたことが中国歴代王朝の特色である、といっていいだろう。足立氏は、この銅貨の長期間・広範囲にわたる使用にこそ、中国歴代王朝の「専制国家」としての特性が表れているという。そもそも銅銭とは、貨幣としての価値がそこに含まれる金属の含有量とはほとんど関係なく、それが「銭の形をしている」から生じるところに最大の特徴がある。その意味で、鋳造されることなく、ほぼ素材価値のまま貨幣として流通した銀とは性格が全く異なる、典型的な「内部貨幣」であった。このような内部貨幣は世界中どこでもその存在を見いだせるが、中国のように広範囲にわたって同一仕様の内部貨幣が長く流通した例はないという。
 足立氏によれば、このことは中国の歴代王朝がその支配する領土内での再分配、公的サービスの維持を国家財政として掌握する専制国家であり、銅銭がその国家財政の支払い手段とされてきたことを踏まえて初めて理解できるという。このような中国の貨幣制度は、封建制の下で領域的自治が進んだ結果、共同体間の交易の手段として、外部貨幣=金属貨幣を中心とした貨幣体系が発達した西洋、および江戸期の日本とは鮮やかな対照をなしている。

 ただし、この部分は、読んでいていあまりに「貨幣法定説=内部貨幣」と「貨幣商品説=外部貨幣」を二項対立的に捉えすぎているように思え、若干の違和感を覚えた。たとえば、僕自身も大きな影響を受けている明清期貨幣経済の専門家である黒田明伸氏は、伝統中国における銅銭の流通には、それが支払い手段であるという点に加え、それが「貨幣として流通するから貨幣である」という同語反復的な構造でしか理解できない側面を持っていることも強調していたように思う*1。この辺についてはまた改めて考えてみたい。


 第四部「流通と経営の構造」では、専制国家の下での流通制度など商業秩序の特徴についてである。ここでのハイライトは明代の代表的な流通制度である牙人‐客商制度の実態に関する詳細な分析である。
 中国の伝統的な市場秩序の特徴は、政府による参入規制もギルド・業界団体による新規参入者の排除も実質的に存在しない、極めて自由開放的かつ競争的な性格を持っていた点に求められる。その反面,法による支配に代表されるフォーマルな制度によって市場の運行が支えられているわけではないため、商取引の実行にあたっては絶えず組織化されない二者間関係に多くを頼らざるを得なかった。その典型として、上記の客商―牙人(行)の関係を挙げることができる。
 広域的な商取引に従事する商人=客商は,原産地からの商品の買い付けあるいは消費地における商品の販売に当たっては、必ず現地の事情に精通した仲買人(牙行)に業務を委託せざるをえなかった。このような仲買人は、いわば地域間の情報の非対称性の大きさを裁定し、「情報レント(=利鞘)」を獲得することができた。このように、商品の流通に当たって数多くの仲介業者を介さなければならないので、その流通コストは非常に高いものとなった。また市場経済自体は開放的であり、上記のような仲買人業の参入規制は低かったため、市場は絶えず一種の過当競争状態にあり、固定的な組織化を行ったり、あるいは生産者が設備投資などを行うことのリスクは非常に高いものとなった。このような市場秩序の特質は、20世紀の中国経済を観察した研究者の多くにも指摘されているところである。
 ここでいう「市場秩序の特質」とは、商業・流通のための組織が団体性を持たないことである。「団体性」の欠如は、例えば「会社」の内部における従業員の帰属意識の弱さ、あるいは独立志向の強さとなって現れる。現代中国でも、企業の中でそれなりの地位にある人間が人脈を生かしてサイドビジネスを行う、という状況は日本より遙かに多くみられるし、一つの企業の中の工程が細かく分かれ、それぞれが独立化していく傾向があることも丸川知雄氏などにより指摘されている。本書の記述は、このような現代にも通じる中国の市場秩序について、歴史的な背景を説明するものだと言えるだろう。


 このように、本書に収められた論文はこれまで説明してきた四部構成のどれか一つが欠けても成立しない、緊密で一体化構成をもつものである。特に、その社会の構成のあり方と国家のあり方が相互補完的な関係にあることは、現代中国を分析する際にも間違いなく示唆に富んでいる。それは、本書の記述に即して言えば、「共同体を作らない個人主義的あるいは個人の影響力に依拠した社会が、専制国家と相即的な関係にある」からである。

 日本とは根本的に異なる社会発展の歩みを遂げてた中国では、現在においてもその国家としての「専制性」は決して払拭されたわけではない。しかしその一方で、アヘン戦争が起きるまでの中国社会は決して停滞していたわけではなく、内在的な近代化や発展の契機を持たなかったわけでもない。そのことは足立氏の前著が出版された1998年当時より、中国の「独自な」台頭が一層明らかな現在の状況に照らしてみればよりはっきりするだろう。その意味で、著者の「専制国家論」は固定的な停滞論でも、また裏返しの中国礼賛でもなく、グローバル経済との相互依存の中で形を変えていく中国の行方をとらえる際の「認識の枠組み」として考えるべきだろう。そのことは、下記のような著者の言葉が端的に示している。

いかなる世界資本主義の段階で、いかなる特性をもった社会が資本主義に包摂され、転換していくかは、世界資本主義の段階的特性と、包摂される社会の特性という二つの要因から分析される必要がある。資本主義の中心との位置関係によって、周辺社会・国家の特性が一意的に決まるのではない。逆に資本主義と遭遇する時間差によって、一意的に周辺社会・国家の特性が決まるのでもない(20−21ページ)。

*1:黒田氏の貨幣論については、たとえば拙稿参照。