梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

人民元切り上げ問題と米中経済の統合度

実はこの4月から勤め先が代わることもあって、なんやかんやと慌ただしいのですが、たまには中国経済の動きもまとめておきたいと思います。

 さて、先日閉幕した中国の今年の全人代全国人民代表大会)は、このブログでも紹介してきた「地方融資プラットフォーム」とそれを隠れ蓑にした地方政府の債務拡大について謝財政部長と周人民銀行総裁が直接言及し懸念を表明するなど、開発と資産バブルをめぐる中央と地方の対立が一層鮮明になったという点で興味深かったものの、全体としてはなんとなく盛り上がりに欠けたまま終わってしまった。

 その全人代の動きと恐らくあまり関係なく、津上俊哉氏が指摘しているように、最近になってアメリカからの人民元の切り上げを求める発言が相次ぐことで問題はすっかり政治問題化した感がある。が、ここではあくまでも為替の問題を経済問題として考えるべきだ、ということを改めて強調しておきたい。

 経済問題としてこの問題を整理するには、国際マクロモデルに関する新古典派ケインジアンの伝統的な論点の対立をまず抑えておくことが有用である。ごくごく簡単にまとめてしまうと、新古典派的モデル(テキストではマネタリー・アプローチとかグローバル・マネタリズムと呼ばれている場合が多い)では、価格が伸縮的であり、国内には需要不足が存在せず、経済は常に自然失業率の状態にあると仮定する。また国際市場は十分に統合されていて、中長期的に購買力平価が成り立つとされる。このモデルでは為替レートの変化は直ちに物価水準の変化に反映され、経常収支には影響をあたえない。すなわち経常収支は一国内のISギャップと等しくなるように決まり、実質為替レートは両者をバランスさせる水準に内生的に決まるとされる。

 それに対しケインジアンモデルでは、国内の需要制約が働いているため、為替レートの切り下げは総需要を増加させることで、自国GDP水準を押し上げる効果を持ち、その効果を通じて経常収支の値に影響を与えるとされる。ただし、ケインジアンモデルを採用する論者が必ずしも経常収支の不均衡の解消に為替レートの操作が有効だとする「弾力性アプローチ」を支持しているわけではない。

 ケインジアンモデルに基づき、米国の完全雇用の実現のために元―ドルレートの大幅な切り上げが必要だと主張する(いわゆる「弾力性アプローチ」を支持する)論者の急先鋒が、いうまでもなくポール・クルーグマンである。彼はあちこちでほぼ同じような主張を繰り返し述べているが、himaginaryさんの整理が役に立つので、引用させてもらおう。

http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20091229/meaning_of_rxより。

RX = EP*/P として定義される実質為替レートを考えてみよう。ここでEは、外貨単位の国内通貨価格として計測された為替レートだ(つまり人民元高はEの低下となる)。またP*は外国の物価水準であり、Pは国内物価水 準である。基礎的な国際マクロ経済学では、
実質為替レートには、貿易の競争力や国際資本移動によって決まる「自然」水準があるとされる。そして経済は、その実質為替レート に達することを「欲する」。
変動為替相場制の もとでは、Eの上昇もしくは低下でそれが達成される。しかしもしペッグ制を採用していると、代わりに物価に圧力が働く。変動為替のもとで達 成されるよりもEを人為的に高く維持することにより、中国がPに上昇圧力を作り出しているわ けだ。つまり、インフレ圧力 は為替政策に直接に関連しているのである。

http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100122/krugman_chinese_new_yearより。

ただ、その一方でクルーグマンは、実質為替レート、ないしそれとリンクしている経常収支を、サムナーほど万古不易のものとは考えていないようである。彼は良く 「immaculate transfer」という言葉を用いて、経常収支の変化が実質為替レートの変化と結びついていることを説明している。 その上で、粘着性のある物価に比べれば名目為替レートは動きや すいので、名目為替レートの変化と経常収支の変化が関連していることを主張する。

 クルーグマンの言うように、もしドル−元の実質為替レートが変化した場合、中国が名目為替レートを一定に保っているもとでは、価格の変化によってそれが調整されることになる。
 クルーグマンは、いうまでもなく原理主義的なケインジアンであるので、国内価格には粘着性があり、均衡が常に成立しているわけではない、と考えている。と同時に両国における非貿易財の存在と為替変動の「履歴効果」により、名目為替レートの変動は両国の物価水準の大きな変動につながらないことを簡明なモデルを使って非常に説得的に論じている*1
クルーグマンはこのような理論モデルをベースにして、国内価格ではなく名目為替レートの方を大きく変化させることを通じて、アメリカは完全雇用水準を実現すべきである、説いているのである(ただし、基軸通貨であるドルは他国通貨に対して切り下げられないので、実際は他国通貨(元)の切り下げを求めて中国政府を批判することになる)。

しかし、新古典派が仮定するように国内価格が伸縮的であり、実質為替レートの水準がそれほど変化しないと考えるのであれば、為替レートの変化はあくまでISバランスにより決定され、経常収支に影響を与えないはずである。
 というわけで経常収支の不均衡を是正する手段として元の切り上げを重視すべきかどうかというのは、経済学的には(グローバル)ケインジアンか、新古典派(グローバル・マネタリスト)か、という違いに帰結するが、それは現実には米中両国の財・資本市場がどの程度統合されているか、あるいは両国の価格がどれだけ伸縮的か、という認識の違いに帰結すると言ってよい。直観的には、経済に対して政府の関与が強く、特に資本の移動に関しては厳しい規制が行われていると考えられている中国について、新古典派モデルの仮定が当てはまる、と考えることには抵抗があるかもしれない。しかし、実際のデータはどうなっているだろうか。

 この問題を考えるときに恐らく役に立つと思われるのが、米中の短期・長期の実質金利をそれぞれプロットした以下の図である。短期金利については、米がFFレート、中国は7日間のコールレートを用い、長期金利についてはいずれも10年物国債の利回りを用いている。実質化に当たっては、いずれも単純に同じ月のCPI(食料品並びに燃料を含む)を差し引いたものである。もちろん、実質金利の求め方としては極めて大雑把だが、おそらく厳密な方法を用いてもそれほど結果に違いはないものと思われる。

米中短期実質金利(1996年1月−2009年1月)

米中長期実質金利(2002年8月−2008年11月)

 グラフを見れば、人民元がドルに対して再び固定し始めた2008年の夏以降、両国の実質金利はほぼ均等化していることがわかる。では、実質金利の均等化とは何を意味するのか。ここでもhimaginaryさんのエントリの助けを借りよう。

http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20100117/real_interest_rate_parityより。

国内金利をi、海外金利をi*、為替の予想変化率をepと置くと、カバーなし金利平価式(Uncovered Interest rate Parity=UIP)は以下の(1)式で表される。

   (1) i - i* = ep

また、実質金利の差は、国内実質金利を r、海外実質金利をr*、国内予想インフレ率を p、海外予想インフレ率を p*として、以下のように表される。

   (3) r - r* = (i - p) - (i* - p*)

もしくは

   (4) r - r* = (i - i*) - (p - p*)

(4)式右辺の第一項と第二項からepを差し引くと、次の(5)式が得られる。

   (5) r - r* = (i - i* - ep) - (p - p* - ep)

この(5)式の右辺第一項は、(1)式の金利平価式にほかならない。また第二項は、実質為替レートの予想変化率であり、購買力平価からの乖離である。

 つまり、実質金利が均等化するには、カバーなしの金利平価式と購買力平価式の両者が成立している必要がある。前者は金融市場に関わる式だが、後者は財市場に関わる式なので、金融市場の裁定取引だけで実質金利が均等化することはない。

 2008年夏以降の、元がドルにペッグした状態の下での米中二国間の経済を考えよう。このとき、上の式の右辺第一項の条件は満たされていると考えられる。というのは、金融危機後の景気刺激策のために両国とも超低金利政策を取っており(金利差が小さく)、さらにペッグ制を維持するのではないか、という期待のために為替の期待変化率も十分小さいと考えられるからだ。このような状況の下で実質金利が均等化しているということは、購買力平価式が成立していることを意味している*2

 これは米中間では財市場が十分に統合されており、両国間の経常収支や為替の問題を考えるときは、新古典派的なISギャップモデルが妥当であり、弾力性アプローチが説得力を持たないことを示唆するものである。これは恐らく私のような国際マクロの素人の単なる思い付きではない。たとえば、国際金融論の専門家である小川英治氏と岩壺健太郎氏も、この点を実証する研究を行い、米中間の経常収支と為替レートの関係を考えるにあたっては、価格伸縮性を前提としたISギャップモデルを用いるのが妥当だという結論に達している*3

 ただし、上の図についてもう一つ重要なのが、2006年の夏から2008年の夏にかけて、元が対ドルレートで緩やかに増価していた時期に、米中の間で実質金利の乖離が生じているという点である。このことをどう解釈するか、ということについては、また改めて考察したい。

*1:http://cruel.org/krugman/fxrate.pdf参照

*2:この場合の「購買力平価」とは、名目為替レートの変化率が二国間のインフレ格差に等しくなる、という意味での相対的なものであり、もちろん米中間で厳密な一物一価の法則が成立しているという意味ではない。

*3:http://gcoe.ier.hit-u.ac.jp/research/discussion/2008/pdf/gd08-048.pdf)参照