梶ピエールのブログ

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『虹色のトロツキー』のその後


 2008年3月のチベット騒乱以降、日本でも中国の少数民族問題を論じた書物が書店で数多くみられるようになった。本書も、その流れの中での出版と位置付けることも、あるいは可能かもしれない。それならばネット上などでもう少し話題になってもよさそうなものだが、今のところそうなっていないのは、本書の上下で6000円という価格に加えて、その突出した「重さ」のせいであろう。その内容について、安易に語ることを拒絶するものがこの本にはあるからだ。全体を読みとおすことは中国の現代史についての一般的な知識があればさほど難しくはない。しかし、そこで提起される問題について整理しようとすると、立ち止まって深く考え込まずにはいられない、これはそんな稀有な書物だ。

墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録

 本書は少数民族問題と文革との関係について、これまでの「定説」に根本的な修正を迫るものである。言うまでもなく、文革についてはこれまでも多くの回想や研究が発表されてきた。しかし、少数民族地域における文革の実態についてはほとんど空白に近い状態であった。たとえば、加々美光行著『中国の民族問題―危機の本質 (岩波現代文庫)』は、1991年に出版された『知られざる祈り』の改訂版だが、そこにはいまだに以下のような表現が残っている。

率直にいうと、新疆における文化大革命は、ほとんど少数派民族を運動に巻き込むことなく展開された。この点は新疆に限らずあらゆる少数派民族地域の文化大革命に共通した特徴ということができる。
それは文化大革命が何よりも漢民族内部での実権派と造反派の対立として始まったことと関係があるだろう。

また王柯著『20世紀中国の国家建設と「民族」』は、タイトルの通り清末・民国期から最近の西部大開発までの中国の民族観・民族政策を概観したインフォーマティヴな書物だが、文革期の「民族」をめぐる状況については一種の「逸脱」として申し訳程度に触れられているに過ぎない。これらは中国の民族問題を論じた書物の文革期に関する記述だが、文革を論じた書物の民族問題に関する記述も似たような状況である。

 文革における民族問題が十分に語られてこなかったのは、もちろん十分な記録が残っていないということのほかに、「被害者の語り」が少しでも民族感情を刺激する方向に向けられることを強く警戒する当局の姿勢が背景にあったことは間違いないだろう。このうち前者についててはツェリン・ウーセル氏が共産党幹部であった父親の残した写真に解説を加えて刊行した『殺 劫(シャ-チェ) チベットの文化大革命』などにより、実態が次第に明らかになりつつある。アレントのいうように「完全な忘却の穴など存在しない」のだ。

 しかし、それに加えて重要なのは、この事件が公式にも悲劇であったと認識され、その悲惨さが盛んに語られたため、「国民の悲劇」としての語りが確立してしまった、という点にあるのではないだろうか。つまり誰しもが悲惨な体験をし、国民であれば誰しも被害者であったために、かえってその内部における加害者ー被害者というな関係性が隠ぺいされてしまった、ということがあるのではないだろうか。「ほとんどの中国人は被害者だった」あるいは「どの民族も加害者であり得たし、被害者でもありえた」、それゆえに、「文革を語るときに民族間対立の問題をことさらに強調すべきではない」、というように。この意味で文革の「語り」は、戦後日本における戦争体験の語りと似たような意味を果たしたのかもしれない。

 しかし本書の著者である楊氏は、文革期のモンゴルにおいて。モンゴル人と漢族の間には、はっきりとした加害者ー被害者の関係性が存在していたとしている。

 この問題に多少なりとも踏み込むには、本書の舞台である内モンゴルの政治的背景についても理解しておく必要があるだろう。文革期における内モンゴルにおける政治闘争は、「民族分裂主義者―どこかで聞いた言葉だ―である「内モンゴル人民革命党員」をえぐり出し、粛清する」という名目で行われた。「内モンゴル人民革命党」とは、中国共産党とは独自に結成され社会主義革命を目指した独自の革命組織である。旧ソ連、中国などの多民族地域で社会主義革命の成功には、このような民族主義的な社会主義組織が大きな役割を果たしたことは、すでにアカデミズムでは常識となっているといってよい。
 山内昌之の一連の研究によって知られるようになったタタール人のスルタンガリエフ旧ソ連ムスリムコミュニストだけではなく、「チベット解放」に関してもその背景にプンツェク・ワンギャルなどのチベット共産党員の活躍があったことことは阿部治平氏の著作が示すとおりである。その背景には、言うまでもなく当時の社会主義運動のインターナショナルな性格、さらにはレーニンの唱えた民族自決の方針に強く影響を受けていたということがある。


 ただし、これらの組織は、ほぼ例外なく社会主義革命の上成就後、解体されるか共産党に吸収された。旧勢力を打破するには必要とされた民族主義的な運動が自分たちに向けられることを、ひとたび権力を握った前衛政党はなによりも恐れたからである。「内モンゴル人民革命党」も例外ではなかった。

 さらに、そういたモンゴリアン・コミュニストの中には日本や満洲国で教育を受けたエリート層が数多く存在していたことが問題を複雑にした。安彦良和のマンガ『虹色のトロツキー』の主人公ウムボルトが生き残って民族運動に加わっていたら、たぶんこういう末路を迎えたかもしれない、と言えば具体的なイメージがつかめるだろうか。彼らは日本語で高度な教育を受け、同時にモンゴル語の高いリテラシーを有していた半面、漢語にはそれほど習熟していなかった。このような「日本刀をぶら下げた連中」こそ、中国共産党の幹部にとって最も警戒された勢力であった。しかし、中国におけるモンゴリアン・コミュニストにはもう一つ、早くから漢化が進んでいたモンゴル西部の出身で、延安における中国共産党の活動に参加した勢力が存在した。内モンゴル自治区の初代主席を務め、文革で打倒されたウラーンフーもその一人である。彼らは漢語に堪能であった半面、モンゴル語は会話さえ満足にできないという面があったと言われる。同じモンゴル人といっても、文化的にも思想的背景にも隔たりの大きいこの両者の間には根強い相互の不信感が存在した。


 本書の記述によれば、内モンゴル自治区を統治しようとする共産党幹部は、まず「延安組」のモンゴル人を重用し、「日本刀をぶら下げた連中」との対立を煽りたてることで、後者の粛清に成功した。しかし、自体はそれだけれではおさまらなかった。文革が過熱すると、粛清と不信の矛先はウラーンフーら、中国共産党に忠誠を誓っていたはずのモンゴル人にも向けられるようになった。その後、「内モンゴル人民革命党員」をえぐり出し、粛清する」運動が本格化するとともに、様々な立場のモンゴル人に対する陰惨な暴力は再高潮に達した。


 本書において描かれるような悲劇について、楊氏は支配民族である漢族の、モンゴル民族に対するジェノサイドであったという見解を明確に打ち出している。文革スケープゴートの役割までもあくまでもモンゴル人「造反派」に負わせることで、結果的に内モンゴルにおける民族主義的な動きは根こそぎにされた、というわけだ。もちろん現在の中国では絶対に受け入れられない見解である。


 もちろん、この見解について学術的な面から判断を下す能力は僕にはない。また、この問題を根本から捉えようとするなら、どうしても日本による満洲国支配の負の遺産、というポストコロニアルな要素を考慮する必要もあるだろう。

 ただ、一つだけ強調しておきたいのは、「階級問題は民族問題に優越する」というイデオロギーこそが、これだけの残虐な行為を支えていた、ということの意味である。これは、いかに残虐な行為であってもある種のイデオロギーの下で正当化されることがある、ということでもあるし、あるいは残虐な行為だからこそそれを正当化し、感覚を麻痺させるするイデオロギーが必要とされた、ということでもあろう。だが、こうも言えるのではないか。階級闘争が民族問題に超越する、というのが明らかに見え透いた嘘であり、実際にはナショナリズムこそが社会変革のエネルギーを支えていたことが、党の共産党指導者の目から見ても明かであったからこそ、現存した/する社会主義国家において、民族主義とは資本主義そのものよりもはるかに警戒され、弾圧される思想とされてきたのではないだろうか。

 このようなことを改めて強調しておかなければならないのは、これが現在の日本において必ずしも共通の認識にはなっていない、という状況があるからである。たとえば、2008年のチベット騒乱のあとも、一部の人々の間では、「問題の本質は民族対立などではなく、階級間の対立だ」といった解釈や、チベット人の異議申し立ては「反帝国主義としての契機を持たない」のでそもそも支持に値しない、といった言説が大手を振ってまかり通ってきた。しかし、本書はそういった言説の存在を改めて揺さぶっているのではないだろうか。

 もちろん、これらの言説は現時点では本気で賛同する人間の少ない、一種のネタでしかない。しかし、そのネタがベタに広く信じられ、実際に多くの人々を死に追いやっていた時代があるということを、私たちは決して忘れるべきではない。