- 作者: 横山宏章
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/06/17
- メディア: 新書
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本書は新書ということを差し引いてもその記述がいささか荒っぽく(この文章はそれをさらに荒っぽくまとめているので注意が必要である)、先行研究の記述にそのまま乗っかっているところも多いが、現在に至る中国の異民族支配の矛盾を歴史的観点から理解するには手ごろな一冊だ。
7月5日のウルムチでの事件をめぐって、メディアでは「新疆ではウイグル族への同化政策が行われ・・・」という表現がしばしば使われた。先日のクローズアップ現代(これはよい番組だった)でも、漢語教育強化の様子が放送された。しかし、「同化」をめぐる実態はもう少し複雑である。近代以降の中国では、「同化」すべき<中国人>の枠組み自体が権力の都合によって絶えず揺れ動いてきたからだ。
清朝を倒して近代中国の礎を築いた革命派のスローガンは「排満興漢」であった。そこでの中国人はほぼ「漢民族」とイコールであり、そこに満州人やモンゴル人やイスラム教徒は含まれていなかった。それら異民族を徹底的に排除する「韃虜の駆除」さえ唱えられた。それに対し、異民族をも包括した「大一統」という概念に基づき<中国人>を定義しようとしたのはむしろ梁啓超などの維新派である。ここから中国のナショナリズムは異民族を排除(「華夷之弁」)する国民国家的なものか、あるいはそれらを包括した「帝国的ナショナリズム」か、という二つの極の間で揺れ続け、そのたびに<中国人>の境界も変化した。
その「揺れ」を体現したのが孫文の民族観である。「華夷之弁」を唱える革命派の領袖でありながら、一旦中華民国が成立すると「大一統」の系譜につらなる「五族協和」をスローガンとして取りいれ、さらには同化主義を前面に出した「中華民族の創設」へ、さらには民族自決を掲げたコミンテルンとの政治的妥協と、この「革命の父」の<中国人>観は、麻生総理も真っ青なくらい大きくブレ続けた。
中国共産党も、初期の陳独秀のころはコミンテルンの方針に沿った民族自決・連邦制路線を踏襲していたのが、その後よりプラグマティックな民族区域自治へと大きく転換し、中華人民共和国成立後は清朝の版図を引き継ぐ「大家庭」に各民族が属する、という図式を自明にするにいたった。単純な同化主義=大漢族主義を戒める費孝通の「中華民族多元一体論」が公式見解として確立した現在でも、その枠組みに異を唱えるものはダライ・ラマやラビア・カーディルのようにいとも簡単に<中国人>の枠外に追放される。
このような状況は、小熊英二氏が『単一民族神話の起源』『<日本人>の境界』などの仕事で達成した、<日本人>という境界の恣意的な設定をめぐる問題群と基本的に同一線上で理解できるだろう。<国民>をめぐる境界が揺れ続けることは、その境界線上にいる人々に大きなストレスを与え、無意識のうちに追い込んでしまう。同化しても、反抗しても、どちらも自分を傷つけてしまうからだ。
たとえば、戦前、台湾人や朝鮮人を誠実に「同胞」として扱う日本人は決して少なくなかった。しかし、その誠実さも「境界」が揺れ続ける帝国的ナショナリズム支配に組み入れられている以上、無意識のうちに彼(女)らに対する抑圧者として振舞うほかはない。平田オリザの演劇「ソウル市民」はそれを鋭く捉えた佳作だし、4月に放送された後、右派勢力の執拗な攻撃にさらされた、NHKスペシャルの「アジアの一等国」でも、同じような立場におかれた台湾知識人/庶民の悲哀がよく描きだされていた。
現代中国においても基本的な構図は変わらない。いかに少数民族やその居住地に対するアファーマティブアクションやバラマキが行われようとも、それが<国民>の「境界」が絶えず揺れ続ける帝国的ナショナリズムの文脈で行われる限り、それは悲劇を再生産する役割しか果たさない。今回のウルムチの事件はそのことを明らかにしたといえよう。
- 作者: 小熊英二
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1995/07/01
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「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで
- 作者: 小熊英二
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1998/07/01
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