梶ピエールのブログ

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都会の鼠と田舎の鼠

K・A・ウィットフォーゲルの東洋的社会論

K・A・ウィットフォーゲルの東洋的社会論

  間違いなく、マルクスは中国やインドを、西洋的合理主義とは異質な論理の支配する、言い換えれば『資本論』の分析がそのままでは通用しない特殊な世界として考えていた。マルクスがインドが一旦イギリスの植民地にされたことを、「進歩」として評価していたという話はあまりに有名だ。それを現在の価値基準から、「アジア人蔑視」として批判することはもちろん可能だろう。しかし、ことはそう簡単ではない。

 マルクスにおけるアジアの特殊性の認識を端的に示すのが「アジア的生産様式」という概念である。ただ、このような考え方は、マルクスの理論が本来当てはまらないはずの旧ソ連や中国の共産党にとっては当然非常に都合が悪いわけで、実際に共産党が政権をとってからは、そういう概念自体簡単に言うと「なかったこと」にされた。すなわち、マルクスが「アジア的生産様式」なる用語で把握していた現象は、ことごとく「封建的遺制」という普遍的・段階論的なものとして読み替えられることになり、前者にこだわった言説は、「アジア的停滞論」として徹底的な批判・排除の対象となった。

 このような立場からすれば、「水力社会」という概念を用いて「アジア的専制」の構造を明らかにしようとしたウィットフォーゲルは、まさに「西洋中心主義によって中国社会を斬る差別主義者」ということになる。実際、現在の中国でウィットフォーゲルの本はほとんど禁書扱いだという。

 また、最近ではこのようなマルクスあるいはマルクス主義内の「西洋中心主義的傾向」を痛烈に批判する左派系の論者がむしろ目立ってきた。その中でも有名なのはサイードだが、それに先駆けた存在として竹内好をあげることができるだろう。その竹内の思想は、今の中国において、欧米からの人権思想の押し付けに強く反発する孫歌氏などの言説に受け継がれている。

 しかし、「アジア的生産様式」という概念、およびウィットフォーゲルという思想家を徹底的に排除したことによって、失われたものもまた大きいのではないか、というのが本書における石井氏の問題意識である。ウィットフォーゲルによる「アジア的専制」に対する仮借のない批判は、それが一旦アジア社会内部の人間によって血肉化されるとき、むしろその主体的変化のための強力な武器となりうるのではないか。石井氏がそう主張する背景には、第二次天安門事件前夜の中国の民主的機運の盛り上がりのなかで、ドキュメンタリー『河殤』のように中国社会の「専制性」を問題とする作品が話題を呼び、また趙紫陽のような開明的指導者自身がなによりも「党支配の専制性の解体」を切実な問題意識として抱いていた、という事実がある。

 しかし、結局学生たちの民主化運動は挫折し、趙紫陽は失脚し、ウィットフォーゲルは読まれなくなり、今の中国国内では「党支配の専制性」批判の代わりに、人々の批判の矛先はあるときは小泉率いる日本に、あるときは腐敗する地方政府に、又あるときは傲慢なCNNや国境なき記者団に向けられているのが実情だ。

 インターナショナルな左翼運動の観点からアジア社会の「非合理性」を批判する「欧米派」の左派と、その隠れたオリエンタリズムに反発する「アジア主義」的左派。この「都会の鼠と田舎の鼠」のような対立の構図は、形を超えて中国のチベット問題や言論統制などへの対応を通じて顕在化している、といってもいいだろう。その意味では、ウィットフォーゲルの思想は、今こそアクチュアルな意味を持っているといえるのかもしれない。その意味で、本書は一見地味な思想研究のようにみえて、実にタイムリーな、読み応えのある本だった。

※関連文献:

オリエンタル・デスポティズム―専制官僚国家の生成と崩壊

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http://matsuo-tadasu.ptu.jp/shucho3.html
http://matsuo-tadasu.ptu.jp/shucho5.html