梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

「格差」に対する感覚

 先週、担当している授業で、例の『激流中国』の「富人と農民工」のビデオを学生に見せた。中国のネット界で大きな反響を呼んだ、という点をとりあえず置いて改めて見直してみると、やはりいろいろなことを考えさせられる。

 これを農民工だけを対象として取られたドキュメンタリーとしてみれば、文句なく素晴らしい作品だと思う。しかし余りに対照的な富裕層の日常映像を交互に挿入するという手法は、手放しでは賞賛できない。たしかに、この二つの現象は根っこのところではつながっていることは間違いない。しかし、その「つながり」の全体像を示すには、途中にまだ何段階もの手続きが必要だ。その手続きをすっ飛ばして二つを直接つなげるやり方は確かに分かりやすいけど、その分こぼれ落ちるものも大きいのではないか、とも思う。それは、例えばかつて僕が『ダーウィンの悪夢』―こちらの手法のほうがもっと問題だとは思うが―にも感じた違和感とたぶん同じ性質のものである。

 たとえば、不動産市場が「富人」達の主要な金儲けの手段になっている背景には、先日紹介した倉沢・李の『北京』でも詳しく触れられているように、近年になってかつて「単位」が提供していた住宅が制度的に個人の持ち家となり、大都市の商品住宅への需要が一気に高まったことや、にもかかわらず土地に対する個人の所有権に関しては法的に十分な保護がなされていない、という「制度のゆがみ」がまずあるが、番組ではそういった背景の説明はほとんど省かれている*1。もちろん、この番組に喝采を送った中国の網民たちは、その辺の事情は承知のうえであえて「富人」達に怒りの眼を向けているわけだが、日本の視聴者が同じようなモラリズムにとらわれてしまうのはやはりちょっと問題だと思う。まあ、授業では僕自身がその辺の解説を補えばよいわけだけど。

 ただ、ビデオに対する学生達の反応はすこぶるよい。それほど受講生は多くないのだが、授業の後で何人かの学生が「衝撃を受けた、もっといろいろ知りたい」といった感じで話しかけてきた。普段の授業ではあまりないことだ。僕の経験から言って、それが中国やインドの話であれ、日本の話であれ、「格差もの」にたいする学生の反応は敏感だ。その意味では、若者の右傾化とか保守化というのが全くの虚像であることが改めてよく分かる。具体的な根拠があっていうわけではないが、日本の若者の格差に対する感覚というのは実は昔からほとんど変わっていないのではないだろうか。要は中国(あるいは韓国)に対するまなざしだけがかつてと大きく変わったのである。もちろん、国内の平準化への志向とナショナリズムは表裏一体の関係にあることも忘れてはならないが、かといってそれを「右傾化」の一言でくくるのは一面的過ぎる、と思う。

 さらに個人的な感覚に基づいて言わせてもらえば、かつて中国の学生と日本の学生の間での「(国内における)格差」に関する感覚には大きな隔たりがあった。要するに中国の学生のほうが「格差」に対する許容度ははるかに大きかったように思う。これはたぶん彼(女)らのもつエリート意識とそれまでの「悪平等」に対する批判意識の表れだったのだろう。しかし、今『激流中国』が日中の若者にかくも「衝撃」を与えているという事実は、「格差」に関する両者の感覚が次第に近づきつつある、ということを示しているのかも知れない。もちろん、だからといって両者の間の距離も近づきつつあるのだ、と考えるのは楽観的に過ぎるにしても。

*1:ただし、シリーズのそれ以降の番組―たとえば11月4日の放送分―を見れば、その辺の事情もある程度分かるようになっている。