梶ピエールのブログ

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キムチを売る女

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 この映画は去年バークレーPFAでも公開されていて、話題になっていることは知っていたのだが、そのときは観そこねた。で、このたび韓国アートフィルムショーケースの中の1作として十三の第七藝術劇場で公開されたので観にいったのだが、中国映画としては久しぶりの「当たり」だった。この張律(チャン・リュルというのはいったい何読み?)という監督、一言で言うととても「うまい」人で、これが2作目とはちょっと信じられない。映像はとてもきれいだし、一つ一つのカットがよく計算されていてまったく無駄がない。また社会の底辺で生きる人々への優しいまなざしと、サディスティックなまでの突き放した描き方とが混在していて、この世界にはまるとちょっと病み付きになりそうである。賈樟柯を連想するという声もあるようだが、人物描写はこの人のほうがずっとうまいのではないだろうか。

 さてこの映画は現代中国に生きる朝鮮族アイデンティティーが一つの大きなモチーフになっているが、それは決して民族主義的なものではない。映画のテイストとしては小栗康平の『伽倻子のために』などに近いところもあるのだが(そういえば映画の邦題は李恢成の『砧をうつ女 』と韻を踏んでいる)、この作品の場合、むしろ「民族のアイデンティティー」のようなものに対する徹底した冷めた視点が特徴である。


鞦韆院落さんも指摘しているが、この映画の描写から中国の「マイノリティ」である朝鮮族に対する民族差別への告発を読み取るのは誤りである。主人公の母親が貧しいのは、そして男たちが絶えず近寄ってきてセックスを求めるのは、彼女が母子家庭で、ヨソモノで安定した職につけなくて、おまけに若くて美人だからであり、朝鮮族ということはほとんど関係ない。映画ではことあるごとに母親が朝鮮族としてのアイデンティティにこだわっている様子が描き出されているが、これはむしろ劇的な変化を遂げている現在の中国に住む人々にとって普遍的な問題である「アイデンティティの揺らぎ」を描き出そうとしたものとみるべきだろう。

 自分を包んでくれた共同体的なものから遠く離れて、頼るべきものが何もない生活の中で、母親は民族としてのアイデンティティに寄りかかってみるが、それは何一つ「救い」をもたらさないばかりか、結果としてささやかな母子の生活を破滅に追いやってしまう。彼女と関係を持つ「同胞」の朝鮮族の男が他の漢族の男たちと何一つ変わらないろくでもない存在として描かれていることからも、監督の視点は明確だ。

 中国映画の中で、これほど「民族」「国家」あるいは「共同体」に対して徹底して冷めた描き方をしている作品は、僕の知る限り始めてである。しかし皮肉なことに、現在の中国の検閲システムの中では、この作品のような描写はむしろあまりに「民族」にこだわりすぎているとして批判されかねない(国内上映が許可されないのもそのためでは?)。そこにこそ現代中国社会の抱えている矛盾が象徴されているといえるかもしれない。
 いずれにせよ、張律監督はとても才能のある人だと思うので、これからもガンガン自由に作品を作り続けていってほしい。