梶ピエールのブログ

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もう一つの『グアンタナモ、僕達が見た真実』

 ドキュメンタリー・マニアの僕としては、「再現映像」というとどうも『そのとき歴史が動いた』とかを連想してしまってあまりまともに見る気になれない。それが「悲惨で、筆舌に尽くしがたい」出来事を扱ったものであるならなおさらだ。例えば『ショアー』にホロコーストの再現映像とかそういった類のものがちょっとでもでてきたら何もかもぶち壊しでしょ?
 しかしそんな僕でも、今年初めに公開された『グアンタナモ、僕達が見た真実』(僕はこれを去年の夏バークレーキューバ旅行に出かける直前に見た)が、どうしても再現フィルムの手法を用いて作られなければならなかったということはよくわかる。それは、グアンタナモで行われていたことが単に「悲惨で、筆舌に尽くしがたい」ものであるからだけでなく、「通常の感覚を持った人間の想像力を超えている」からだ。たとえこの映画の製作意図や政治的姿勢に批判的であっても、映画を観た後では、グアンタナモと聞くとまずあの異様な取調べの場面を思い浮かべずにはいられない。そういった意味で、月並みな言い方になるが「映像の威力」を感じざるを得ない。

 さて、この映画と併せてぜひとも読んで欲しい、いや、読まれなければならないテキストがある。『諸君!』9月号に掲載された水谷尚子氏による、やはり9.11後のアフガン空爆の混乱の中でパキスタンアフガニスタン国境付近で拘束され、グアンタナモ収容所に移送された後アルバニアに「亡命」することになったウイグル人たちへのインタヴュー記事、「中国政府よ、「対テロ戦争」の名を騙るなかれ」である。想像するに、『諸君!』のコアな読者層とあの映画をわざわざ映画館で観るような層はほとんど重なっていないだろう。だからなおさらこの二つを「セットで読む」必要があることを強調しておきたい。
 さてこのウイグル人たちがどういう経緯でグアンタナモに収用され、なぜ現在アルバニアにいるのか、などといった背景については僕が生半可な知識で説明するのもなんなのでとにかく水谷氏の論考をお読みいただきたいのだが、おなじみのkokさんが訳している独シュピーゲル誌の記事と比較しても興味深い(かなりマニアックだが)。
http://kok2.no-blog.jp/tengri/2006/07/5albanian_uighu.html

 さて、映画『グアンタナモ・・』に話を戻すと、米軍による「テロ容疑者」への取調べの非道さを白日の下にさらしたのと並んでこの映画のもう一つの重要なモチーフは、ウィンターボトム監督の表現を借りれば「ごく普通の平凡な3人の若者が、これほど異常な状況に巻き込まれてしまった」という過程を丁寧に追いかけた点にある。この点に関しては鷲谷花さんによる以下のような記述がその感じをよく表していると思う。

本作の主人公たるパキスタン系英国籍のアンちゃんたちは、まごうかたなき「ボンクラ」として映しだされていたと思います。彼らが戦時下のアフガニスタンに行こうと思い立つに至った動機とは、「なんか社会勉強になりそうだし〜、人助けとかもできそうだし〜」というテキトー極まりないもので、現地の情報収集をするとか、いざという場合に備えて故国の家族に連絡するとか、保険に入るとか、賢い大人としての手続きは一切抜きに、ほとんどその場の勢いだけでワイワイガヤガヤ、バスに揺られてゲロを吐きつつ国境越えて、戦火のアフガニスタンに入ってみたら、案の定、人助けどころの騒ぎではなく、ろくでもない苦境の連続に右往左往し、いかにもまずい選択をくり返したあげく、最前線に連れていかれて散々死ぬような目にあい、どさくさに紛れて一人は行方不明、残り三人はアルカイダのメンバーと決めつけられて米軍の捕虜となり、キューバグアンタナモ基地にて人権も尊厳も一切認められない虐待の限りを受ける…、

 水谷氏がインタヴューを行ったウイグル人の中にも、中国にいてもうだつが上がらないし、でも家がそこそこ裕福なのでとりあえずパキスタンに留学に来て、でもイスラム教をマジメに勉強する気もなくてぶらっとアフガンにやってきたら空爆に巻き込まれた、という映画のアンちゃんたちとそっくりの境遇の青年が紹介されている。だが、米軍に捕まったウイグル人にはそういうボンクラ青年だけではなく、文字通り「食い詰めて」中国を出てきた経済難民や、反政府運動で投獄経験のある政治亡命者も混じっていた。このようにその背景はさまざまだが、彼らに共通するのは、困難に直面した時「イスラム神学生が創った国なら、きっと誰かが助けてくれるに違いないと思っ」てわざわざこの時期にアフガン(アフガンにはウイグル人のコミュニティがある)くんだりまでやってきた、という点である。
 基本的に西洋ナイズされていて、少なくとも名目としては「ボランティア」という「近代個人主義的な」理由でアフガニスタン入りした映画のボンクラ青年より、このウイグル人たちの境遇の方があの時期国境付近で拘束された多くのイスラーム系の「普通の人々」のそれに近いのではないかと思う。もちろん、映画の青年達と彼らとの最大の違いは中国政府が「テロリスト」として身柄の受け渡しを要求してきた点にあるのだが。いずれにせよ、アメリカおよび中国政府の「国家の論理」からすれば、「対テロ戦争」のような非常時において各国の政府よりも、あるいは国連難民高等弁務官事務所よりも、あくまでもイスラーム世界のネットワークを頼りにしようとするこのような「普通の人々」の行動原理はまったく理解のできないものであり、力ずくでも屈服させなければならないものだったのだろう。

 そんな彼らがパキスタンから移送されたグアンタナモ基地で受けた仕打ちについてはほとんどあの映画そのものである(ただし映画の青年達が2年半で釈放されたのにウイグル人たちは出るのに5年かかった)。中でも印象的なのは、映画でも描かれていたが、グアンタナモの「檻」の中では母語が同じ者たち同士は絶対に同じ一角に集めれらず、非収容者達は基本的にお互い(英語以外では)話ができない状態におかれていた、という点だ。そんな中で、ウイグルのボンクラ青年は映画のボンクラ青年よりも繊細だったのか、重いノイローゼにかかって日に日にやせ細っていったという。
 そんなひどい目に会いながらも彼らは「中国に強制送還されるよりはましだと思った」と口をそろえて証言している。あまりにも色々なことを考えさせられるが、今はとりあえず『グアンタナモ・・』のウィンターボトム監督の次の発言を噛みしめておこう。

個人的には映画を作ることで、観客に何か特別な影響を及ぼし、それが大きな流れになることを期待するというのは間違っていると思うんだ。本質的に映画は、そういう大きな力は持っていなくて、映画の中の登場人物の持つインパクトに、観客たちは関心をよせるのだとね。僕は、あの3人の若者と彼らの体験に関心を持ったからこの映画を作ったし、あの3人に起こった凄まじい体験を多くの人々が知るのは素晴らしいことだと思っている。

目を覆うばかりの残酷な現実と、その被害に遭いながらも生き抜く彼らの姿を対比して見ることで、ブッシュやブレアが口にする「こいつらは悪い人間で、これは悪魔に対する戦いであり、テロに対する戦争なのだ」と確信を持って言い張ることの安易さ、愚かさに気付くのは大切なことなんだ。ブッシュやブレアの主張がどんなにごまかしに満ちたものであるか、どんなに人を惑わす危険なものであるかが、この3人が体験したことを詳細に知ることによって充分納得できるだろうし、それによって、観客は現実世界での真実を見極める冷静な視点を持てるようになるだろう。