梶ピエールのブログ

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「厳原閥かもしれない・・いやそうに違いない症候群」

神聖喜劇 (第1巻)

神聖喜劇 (第1巻)

 先日、マンガ版『神聖喜劇』(が手塚治虫文化賞(「新生賞」)を受賞した。
http://www.asahi.com/event/TKY200705090253.html

 かれこれ15年前に、今では絶版となった筑摩文庫版の5巻本をそれこそむさぼるように読んで以来のファンとしては素直に喜びたい。最初は正直ちょっと絵になじめなかったり、小説を全く読んだことなくてマンガだけ読んで引き込まれる読者がどれだけいるんだろうか?などと意地の悪いことを思ったりもしたが、結局は全巻購入したし、「むさぼるように」とはいかないまでも、ところどころ話の展開を忘れていたせいもあってやはり引き込まれて読んでしまった。

 僕がこの作品の一読を人に勧めたい理由はただ一つ、何よりも面白くて読み出したら止められないからである。その面白さは、マンガで言えば例えば『医龍』の面白さに近い。いずれも超人的な能力を持った主人公が、一見実世界とは隔絶したかのように見える閉鎖的な集団において隠然とはびこる「世間」の不条理に対して、少数の仲間たちとともに敢然と立ち向かっていくという話である。その意味で実は極めて「日本人好み」の話であるといってよい。「学校出」の兵隊を中心とした「軍隊内世間」の象徴とも言うべき「厳原閥」は野口教授とその取り巻きにそっくりだし、吉原二等兵のキャラはさしずめ木原毅彦といったところか。いずれも舞台は命のやり取りを伴う緊張した現場であり、現代に生きる普通の日本人にとってはまあ遠い世界といっていい、という点でも共通している。
 しかし、『医龍』が所詮は良質のエンターテイメントとして、読み終わった後はああ面白かったと放り出して忘れてしまえるのに対して、『神聖喜劇』はそれにとどまらずほろ苦くもなんとも重い読後感を残す。それはなぜか、ということを考える上で参考になると思われるのが、第5巻の巻末についていた高田理恵子氏の「「厳原閥」かもしれない症候群」である。このシリーズの巻末についている識者の解説は概して面白くないのだが(ただし大西巨人本人の回想は読む価値あり)、この文章は面白かった。

 高田氏の説く通り、かつての日本軍は「国民の軍隊」のタテマエとしてあらゆる身分・階層間の平等を謳っていたものの、現実はもちろんそれとはほど遠いものであった。かといって、いわゆる「ひっぱたかれる丸山真男」のエピソードに象徴されるように、非近代的な剥き出しの暴力の前に「近代のロジック」が一方的に蹂躙される場所、というわけでもなかった。軍隊の中で自らの「位置取り」をわきまえながら、相対的にうまくやっている「厳原閥」の主要構成員が「学校出」すなわち曲りなりに近代的なディシプリンを身につけた者たちであることは象徴的だ。
 ここにはいわば「近代人」の二つの側面が現れている、といえようか。すなわちどんな境遇にあっても個人の自由な精神を何よりも尊重する東堂や生源寺だけではなく、システムを「所与」としてとらえ、それへの適応を第一原理として行動する厳原閥の面々も、ある意味ではまぎれもない「近代人」なのである。『神聖喜劇』は、その近代のロジックを身につけているはずの「学校出」たちが、いやむしろ中途半端に「近代人」であるからこそ、軍隊における前近代的な不条理を正すどころか、率先してそれに加担していく様子を容赦ないくらい克明に描いている。おそらく我ら「中途半端にしか近代人たり得ないもの」たちにとって、この作品が胸がすくものでありながら同時にイタイ(イタ気持ちいい)ものでもある最大の理由がここにある。

 しかし、問題はそこからである。この作品を真摯に受け止めるやり方としては、おそらく次の二つのものがあるだろう。すなわち、「中途半端な近代人たるわれわれ」はどうせ厳原閥のようにしか生きられないのだから、せめて、そのことがより深刻な「悪」につながらないよう、少しでもマシな社会の仕組みを作っていこう、というのがそのうちの一つである。そしてもう一つは、この世界は表面上いかに整然と見えようとも、実は剥き出しの暴力や不条理と常に隣りあわせなので、いかなる場合にも「厳原閥」のような生き方を選ぶことをおのれに禁ずる、あるいはそのような生き方自体を認めない、という道を敢然と選ぶことである。この作品の原作者が現実に後者の生き方を選択したことは言うまでもない。
 もちろん僕自身は前者の道を歩む、ことを自覚的に選択しているつもりだ。個人的には、経済学とはそのようなマシな社会を考えるために存在しているようなものだとも思う。しかし、改めてこの作品をマンガ版で読み通してみて、後者のような生き方にある種の美しさと憧れを抱いてしまう自分がいることも、また認めざるを得ない。

 ・・以上述べたようなことは、古くからある「社会と個人」をめぐる問題の構図に収まるもの、といってしまえばそれまでだろう。しかしそれを見事なまでに根源的な形で、しかも現代に生きるものにも決して無縁ではない形で突きつけてくるという点で、この作品はやはり不朽の名作なのである。

医龍(ビッグコミックス)
永井 明
小学館 (N/A)
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