梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

再び「白人の重荷」について

このところNHK衛星ドキュメンタリーネタが続いていたのは別に経済学のとっつきにくさをカバーしようとしているわけではなくて、単に最近経済学の勉強をしていないのでネタ切れというだけなんですが、われながらいい加減マンネリ気味だと思うのでこのへんで総括と言うことにしたいと思います。

 このブログでもたびたび紹介してきた、NHKBS「世界のドキュメンタリー」では、中国とかインドとかいった途上国の中の「勝ち組」を含め、グローバリズムの負の側面にも鋭く踏み込んだ番組がたびたび放送される。もちろん、その内容を全て鵜呑みにするのは危険だが、多くの場合それらは開発とかグローバル化とかいった問題を抽象的に考えていく時には抜け落ちてしまいがちな、現実の問題に気付くための貴重な機会を提供してくれる。
 ただ、ヨーロッパのメディアによって製作された番組に顕著な、人道主義的な観点から途上国の現場で行われている「悪」を厳しく告発する姿勢を見ていると、その「事実性」の問題とは別に、ある種の「危うさ」を感じてしまうのも事実だ。それはあえて言うなら、「白人の重荷」という概念にかかわるものである(もちろんここでいう「白人」は先進国の人間全般を指しており特定の人種を指しているわけではないが、歴史的な蓄積のある言葉なのであえてこれを使うことにする)。

 ウィリアム・イースタリーの"Whiteman's Burden"という書物については既に何度か言及してきた(たとえば、id:kaikaji:20060323、id:kaikaji:20060407)。イースタリーがこの言葉をあえて書名に使うことで主張したかったことは、およそ次のようなものだった。確かに、途上国の貧しい人たちが豊かになれるよう援助をすることは重要だ。しかし、その援助が成功するためには、貧しい人たちがまず自分達で「豊かになろう」という意思を持つことが大前提だ。現地の人々の自発性を無視し、ただ巨額な金額をつぎ込むような援助のあり方は、植民地時代に西洋人が抱いていた「白人の重荷」=「この人々は自分達で豊かになる能力がないので、先進国のわれわれが救ってあげるしかない」という傲慢さにつながるものである。その傲慢さは単に無駄な援助を生み出すだけではなく、かつての植民地支配と同じく、途上国の現実に大きな弊害をもたらすだろう。

 彼の援助批判、特にサックスなどに向けられたそれが妥当なものかどうかはとりあえずおいておこう。彼が問題とする「白人の重荷」は「経済開発」に関するものだったが、同じ批判は、途上国における環境改善や人権侵害に対する欧米の視点からの抗議にもある程度あてはまるのではないだろうか。ただ、開発援助にせよ、人道主義にせよ、「白人の重荷」という批判を恐れて何もしないのがいいか、というともちろんそんなことはない。実際には、どのような人道的行為が「白人の重荷」に基づくもので、どのような行為ならそうではないか、ということを分けることはとても難しい。では、そのへんのバランスをどのように取っていけばいいのか。

 僕なりにこれは大事ではないか、と思えることが二つある。一つには、対象とする地域の事情に通じたうえで、そこで起きている問題を「これは経済のグローバル化に起因するもの」「これはむしろその社会の伝統的なもの」と言った風にていねいに切り分けること。そしてもう一つは、それらの問題の深刻さを先進国の人間が現地の人間に「分からせる」という態度をとることではなく、出来うる限り現地の人間の視点や声を通じて問題をとりあげること、ではないだろうか。

 日本でも話題になったフーベルト・ザウパー監督の映画『ダーウィンの悪夢』は、このところBSで放送されてきたようなドキュメンタリーよりもはるかに「白人の重荷」の危うさを抱えている作品だと思う。むしろその立場を確信犯的に引き受けようとしている感さえ受ける。この作品に関してはdojinさんid:dojin:20070130#p1がアフリカに詳しい人たちからの批判を紹介してくれている。

http://www.arsvi.com/2000/0610fm.htm
http://jatatours.intafrica.com/habari49.html

 結論から言うと僕はこの人たちの感想にほぼ全面的に同意するのだけど、ここではもう少し違った角度から語ってみたい。

 まず確認しておきたいのは、そこで描かれているのはグローバル化の問題と言うよりも多くが「近代化」にまつわるものであるということだ。ナイルパーチビクトリア湖への放流は1950年代に始まっているし、アンゴラの内戦はむしろ「グローバル化」が始まる冷戦の構造が生み出したものだ。売春やストリートチルドレンの問題も、むしろタンザニアが「近代化」のレールを歩み始めているが故の問題といえるだろう。また一口に「近代化」の問題と言っても、そこには「アフリカ固有の問題」もあれば「タンザニア固有の問題」も存在するだろう。
 また、後者についても「よりタンザニアの近代化が進むことで、自力で解決することが可能な問題」もあれば、そうではない問題もあるだろう。例えば、映画で出てきた魚のアラ処理場の劣悪な環境管理の問題は、わずかの資金の投入で解決可能なはずだ。さまざま環境問題についても、市民社会が成熟していくことによって対策が採られるだろう。しかし、経済発展が農村にまでいきわたらない限り、売春やストリートチルドレンはなくならないだろう。またアフリカの他の地域で起きている紛争は、確かにタンザニア人だけではどうしようもない問題だ。そして恐らくはタンザニア以外のアフリカ諸国にとって、悲劇の多くは「近代化のめどさえ立っていない」点にあるのではないだろうか。

 だが、映画の中で「タンザニア」の問題がそのように丁寧に切り分けられているとはとても思えなかった。むしろ、さまざまな層の問題をわざと荒っぽく観客の前に投げ出すことで、「不安」を掻き立てることを狙いにしているような印象を受けた。確かにこういった手法はより多くの人を途上国の問題にひきつけると言う点では効果がある。しかし、その副作用も大きい(かった)のではないだろうか。それは、恐らくこういった手法がとられることによって暗に「これらの問題はあまりに大きすぎて、タンザニア人の手では解決できない」というメッセージが入り込むことだ。
 映画のパンフレットではザウパー監督がナイルパーチのボイコットを批判するコメントを載せている。しかし、ボイコットを行った人々は「われわれがタンザニアの人々を救わなくては」というこの映画のメッセージを忠実に受け止めただけではないだろうか?


 もう一つ、僕はやはり中国のことを連想せずにこの映画を観ることは出来ない。はっきり言って、この作品で描かれた数々の「悪夢」に似たエピソードを現代の中国で探してくることは簡単だ。先進国向けのTシャツやビーズを劣悪な環境の下で作る少女達が出てきた農村は、もしかしたら工場汚染で「ガンの村」と呼ばれている地域かもしれない。あるいはかつて貧しさから村ぐるみで売血を奨励しており、その結果「エイズの村」と呼ばれているかもしれない。またかつて工場で働いていた少女達は、もっと手っ取り早く現金を稼げる手段を求めて娼婦になっているかもしれない。昨年開通した青蔵鉄道は生態系の破壊につながるのではないかという批判も根強い。新疆には現在なお核実験の後遺症に苦しむ人が存在すると言われている。また、『ダーウィンの悪夢』ではムワンザが紛争地へ向かう飛行機の中継地になっているかも知れない、という点が問題とされているが、かつてのアンゴラ内戦や現代のダルフール紛争に関して中国政府が取ってきた態度はどのようなものだっただろうか。

 これらのストーリーをつなげて「ダーウィンの悪夢」の続編のような映画を作ることは、多分それほどむつかしくはないだろう。しかし、果たしてそれをグローバル化の問題点を鋭くえぐった作品として素直に歓迎できるだろうか?もちろん、日本では、別の意味でそれを大歓迎する人々はいるだろうが。

 たとえば先日も言及した、英グラナダテレビのドキュメンタリーもかなりそういった中国の「影」の部分に集中的にスポットをあてていた。しかしそこから受ける印象は『ダーウィンの悪夢』とは大きく違ったものである。それは、グラナダテレビの番組ではあくまでも中国人自身、それも専門的な知識によって問題の深刻さを認識した人々自身の声によって画面が構成されていたからだ。確かにそのような「声」がある一つの番組の中に収められている、そのこと自体に製作者側の一定の意図がこめられているのは確かだ。しかし、少なくともそこから「白人の重荷」的な危うさを感じることはほとんどなかった。そこから感じられるのは、現在の中国が直面している問題がいかに大きく、深刻であろうとも、基本的には中国の人々が問題の所在に気付き、それを自分達の手で解決していくしかないのだ、という明確なメッセージだったからだ。

 しかし、事情はアフリカにおいても、タンザニアにおいても同じではないのだろうか。そもそも、『ダーウィンの悪夢』では、タンザニアで起きている問題を論理的な言葉で説明する専門家がほとんど出てこないのはなぜか。それは、中国には良心的な技術者やジャーナリストや弁護士が多数存在しているのに、タンザニアには存在しないからなのだろうか。

 以上のようなことををきちんと納得できるロジックが見つからない限り、僕はやはりこの映画を肯定するわけにはいかない、と思う。