梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

新春もフェアトレード。

今年最初のブログ更新と言うことで、本当は違うネタで行こうと思っていたのだけど、折角山形さんやfuku33さんからコメントを頂いて議論が盛り上がった(たぶん)ので、どういったところが対立点になっているのかここで改めて整理しておこう。
 
 まず、議論の前提となっているのは、世界的に農産物価格が下落傾向にある中で、コーヒー農家に代表される途上国の農民の多くが貧しい生活から抜け出せないでいる、という認識である。その上でそういった途上国の生産者に対する援助としてどのような方法がありうるか、と言った時に、次の二つが代表的なものとして思い浮かぶだろう。

(1)生産者がより付加価値の高い商品を生産して「自立」できるよう信用・技術面でのサポートを行う。
(2)生産者がグローバル市場における農産物の価格変動による打撃を受けないよう、「公正な価格」で買取りを行う。またコストの上昇分は何らかの形で消費者に転化する。

 さて、この二つのタイプの援助に対する力点の置き方によってフェアトレードに対する立ち位置も大きくわかれる。多くの経済学者は、上記の(1)を生産者の自助努力を促進するものとして賞賛する一方、(2)のタイプの援助を価格メカニズムをゆがめ、生産者から「自立」のインセンティヴを奪うものとして否定的にとらえるだろう。これを第一の立場としておく。おそらく山形さんの立場もこれに近いものだと思う。
 それに対し僕がこれまでのエントリで延々と論じてきたのは、(1)の援助が重要であることは認めるものの、それだけでは十分ではない場合、(2)の援助もやり方によってはそれほどインセンティヴの阻害は生じず、(1)のタイプと組み合わせることによってより広い貧困削減の効果が期待できるのではないか、ということであった。つまりオーソドックスな経済学の枠組みの中でのフェアトレード擁護論である。便宜上これを第二の立場とさせていただく。

 さて、これらとは根本的に違う立場からフェアトレード擁護の論陣を張っているのが、著名な倫理学ピーター・シンガーやfuku33さんによる以下のような議論だ。

http://www.project-syndicate.org/commentary/singer10/Japanese
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070105/1167985421
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20070106/1168070531

 彼らの議論を乱暴にまとめてしまうと、次のようになるだろうか。
 先進国の高度消費社会においては、確固たる実体を持ったモノの価値はそもそも存在しない。そこでは「本当のコーヒーの価値に対する価値」や「企業のブランドイメージに対する対価」や「正義感を満足させることに対する対価」の間に本質的な差異は存在しない。そのことを前提とした場合、第一や第二の立場では周辺的な位置づけにとどまっていた上記の(2)のタイプの援助(フェアトレード)は、むしろ先進国消費者の「正義感」をかきたてる「マーケティング」や「エンジニアリング」を戦略的に組み込んだものとして積極的に評価していくべきではないか、と。このようないわば「ポストモダン消費論」からのフェアトレード擁護論を第三の立場としよう。

 さて、以上の三つの立場は、その際あくまでも従来の生産者・企業・消費者の関係を所与として扱うという点で共通している。これに対し、従来の資本主義の生産・流通・消費のシステムを根本的に変えていかなければ世界の貧困問題は解決しない、というよりラジカルな立場がありうるだろう。この第四の立場からずれば、第二や第三の立場によるフェアトレード擁護論は生ぬるいだけでなく基本的に資本の論理を補完するものでしかなく、ラジカルな変革にとって「敵」だとみなされることになるだろう。

 さて、第一と第二の立場についてはこれまでのエントリでさんざ論じてきたし、第四のの立場についてはその「ラジカルな代替案」の具体的なイメージが現時点ではよくわからないので、ここでは論じるのを避けよう。

 で、第三の立場についてだが、確かにそういった「エンジニアリング」「マーケティング」が日本を含めた先進国の消費者の意識を大きく変えてしまう可能性も否定すべきではないのかもしれない。それでも、山形さんや僕がコメントしたように、次のような疑念をぬぐえないと言う人も多いのではないだろうか。

・先進国の消費者の「正義感」は基本的に移ろいやすいもので、それに依存した援助はサステナブルなものとはなりえないのではないか。
・そういった「エンジニアリング」「マーケティング」の能力に長けているのは結局多国籍企業や広告会社といった存在であり、そういったものに依存する援助のあり方が主流になることは途上国生産者の豊かになろうとする「主体的な努力」をますます無力化することにならないか。

 こうしてみると稲葉さんid:shinichiroinaba:20070106も少しコメントされているように、この問題をより深く掘り下げていくには「近代の問い直し」ということが不可欠になってくるのかもしれない。でも、あんまり問題が大きくなりすぎると正直手に負えないなあ。この辺が引き返し時かも・・