梶ピエールのブログ

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イースタリー講演と日本の開発援助

 水曜日に経済学部主催のセミナーでウィリアム・イースタリーの講演会があったので参加してきた。イースタリーの基本的な主張はすでに47thさんが手際のよい紹介をされている()なのでそちらを参照してください。
 それを読んでいたため、もっとサックスやアンジェリーナ・ジョリーやボノらに対する悪口がぼんぼん出てくるかと思ったけどそんなことはなくて、あくまでもデータに基づいた真面目な現状分析と政策提言の話が中心だった。ホームグラウンドでの講演とは違ってやはり若干慎重になったのだろうか。

 ただ、データとはいっても以下のような紹介の仕方をするところはやはりこの先生お茶目(パワーポイントをメモしたものなので正確ではありません)ではある。

1960年代: ウォルト・ロストウ、J.F.ケネディに途上国への援助額を2倍にすることを進言。
1970年代: 世界銀行総裁のマクナマラ、途上国への援助額を2倍にすると表明。
1990年代: (冷戦も終わったことだし?)世界銀行は援助額を2倍にすると表明。
2005年: ボノ、ブレア、ゴードン・ブラウン(英財務大臣)がイギリスの援助額を2倍にすると宣言。
おまけ: ジョージ・W.ブッシュでさえ、任期中に援助額を50%増加させている。

イースタリーはまた、二次世界大戦後、先進国の首脳達や国際機関が一定の周期で(かれはそれをStone Age, Iron Age, Sillicon Ageと呼んでいる)同じような途上国援助や貧困撲滅に関するお題目や目標を掲げ、その結果として同じように成果のあがらない援助が繰り返されてきたことを指摘する。要するに「あんたら学習能力ないんか」ということだ。そこからそういったお題目が先行しがちなPlanner中心の援助に代わって、FIA(Feedback, Incentive, Accountability)を重視するSearcher中心の援助をあるべき援助として推奨する、という方向につながっていく。

 さて、もちろんこれらの話は以前紹介した(id:kaikaji:20060323)彼の新著 WhiteMan's Burden の内容に沿っている。で、この本だはまだ最初の3章ほどしか読んでないのだが、そこまでの暫定的な感想として感じたことは、これは日本における開発経済学研究や日本の開発援助について多少なりとも勉強してきたものにとっては非常に耳に入りやすい議論だな、ということだ。
 
 僕の理解する範囲でイースタリーの経済発展、経済援助に関する主張を列挙すると、以下のようになるだろうか。

  • 援助に関する一つの方法論をどの援助対象国にも当てはめるのではなく、各国ごとの「固有の事情」あるいは「現場感覚」を尊重すべきである。
  • 経済発展の一定段階までの時期においては、「市場経済」のメカニズムはそれ自体では十分に機能せず、政府が積極的な役割を果たすべきである。
  • 多額の援助がつぎ込まれたにもかかわらず、多くの途上国が「離陸」に失敗したのは、初期条件が不十分で「貧困の罠」に陥ったからというより、それらの国の政府に「よいガバナンス」が存在せず、インセンティヴが十分に働いていないからである。
  • 結局、途上国が経済発展に成功するかどうかは第一にその国の「自助努力」にかかっており、援助はあくまでも目的を限定した、補助的な役割にとどまるべきだ。

 こうしてみると、彼の主張は10年ほど前の世銀のレポート『東アジアの奇跡』のスタンスに非常に近いように思われる。また、石川滋、原洋之介、大野健一といった日本を代表する開発経済学者、あるいは開発経済学が専門ではないが「開発主義」についての包括的な理論化を行った村上泰亮の議論とも類似性があるように感じられる。
 例えば彼は著書の中で、自身の開発援助観に対する哲学的な基礎付けをカール・ポパーエドモンド・バークなど、普遍的な価値や近代的「進歩」の概念に対し懐疑的な思想家に求めているが、これも村上泰亮西部邁の議論を連想させる。

 ただ、やはり日本人の発想とは大きく異なると思える点もある。それは、上で述べたような一連の「開発主義」的な発想に基づく開発援助を'Searcher'中心の援助として、サックスらに代表される(とされる)'Planner'中心の援助に対比させ、あくまでも前者は「よい援助」、後者は「悪い援助」という非常にわかりやすい形で描き、読者に印象付けようとしている点だ。
 例えば青木昌彦らのグループも比較経済分析の枠組みを使って上記のような日本の「開発主義」を擁護するような研究を発表しているが、そこで用いている方法論の名称が「市場保全的アプローチ」である。これは一言で言えば「市場が円滑に機能するための政府の役割を重視する」というものであるが、専門家以外には非常にわかりにくいだろう。イースタリーのPlannerをこき下ろしSearcherを称揚する議論のわかりやすさとは対照的である。

 そういうわけで、彼の議論は面白いのだが、やはり若干の留保もつける必要があるだろう。まずこのような理念の下でなされていた日本のODA自体が、左右からの批判にさらされ、縮小の一途をたどっている、という現状がある。注目すべきは、そのような批判に際し「理念がない」「現地政府の意向を尊重しすぎている」といった点が繰り返し述べられてきたことである。すなわち、日本の援助においてはむしろ「Plannerの不在」こそが問題にされてきたのだ。援助においてPlannerの役割を無視して果たしてよいのか、ということは常に問われるべきだろう。
 また、彼が肯定的に引き合いに出す東アジア諸国の経済発展、最近の例では中国の発展の経験も決してよいことばかりではなく、政治的民主化の遅れやコーポレートガバナンスの不透明性ということが常に問われ続けててきた。この点イースタリー自身が直接東アジアを主なフィールドとしていないだけに、その経験を若干美化する傾向があるように思われる。

 また、仮に日本がこれまで行ってきたようなSearcher中心の援助、あるいは東アジア諸国の「自助努力」による発展がイースタリーの言うFIAの観点から望ましいものであったとしても、それがどれだけ他の地域、例えばアフリカにおいて通用するか、という点には慎重な検討が必要だろう。

 というわけで、イースタリーの議論は、口当たりのいいスローガンが先行しがちな開発援助を考える上での問題提起としては非常に重要なものだが、それが現実の開発援助でどれだけ説得力を持つのかどうかについてはもう少し慎重にみていく必要があるかもしれない。ただ一ついえることは、そういったこれからの援助のありかたを考えるための試行錯誤において、日本の果たす役割はかなり重要なのかもしれないということだ。現政権をはじめとして、そのことに対する日本国内の認識があまり高くないように思われるのは、やや残念ではある。