梶ピエールのブログ

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アカロフ先生講演メモ・その4

 人民元談義に気をとられて間が開いてしまいすみません。


5.自然失業率仮説
 さて、今回は講演ののキモともいうべき自然失業率仮説に関する記述である。自然失業率にに関するアカロフ氏の問題意識は、hicksianさんのところで「公平賃金仮説」をめぐる議論の一つとして紹介されていたAkerlof=Dickens=Perryの論文における問題意識とも大きく重なっている(当然といえば当然だが)。以下、hicksianさんのエントリより。

相対的な(他企業と比較しての)実質賃金の調整を行ううえでゼロインフレは大きな困難を伴う。名目賃金が下方硬直的であるために実質賃金を引き下げようがないからである。インフレ率がプラスの範囲で推移していれば、名目賃金を据え置くことで(また物価上昇率以下に名目賃金の上昇率を抑えることによっても)実質賃金の引き下げを実現できる。この時名目賃金の下方硬直性は問題にならない。しかしながら、ゼロインフレ下において実質賃金を引き下げるためには名目賃金を引き下げざるを得ない。が、名目賃金を引き下げることは叶わぬ相談である。

なぜなら、

 名目賃金のカットは従業員によって不公平(unfair)だとみなされ、その結果serious morale and staff retention problemsを引き起こすために、雇用者は例外的な状況を除いては名目賃金を引き下げようとはしない。ただし、すべての賃金引き下げが不公平だとみなされるわけではない。名目賃金上昇率がインフレ率以下であるために実質賃金が下落したとしても、(不公平感からくる)従業員のモラルの低下や離職行動を惹起するわけではないのである(←名目賃金をカットしないでもいいから)。公平観念(fair)は名目賃金を下方硬直的にするけれども、実質賃金までをも下方硬直的にするわけではない。ゼロインフレ(+デフレ)の問題は名目賃金・実質賃金を双方ともに下方硬直的にすることにある。

 以上の箇所に、今回の講演にもつながるアカロフ氏の問題意識がよく現れていると思う。というわけで、この項目に関する説明終わり。

 ・・これではいくらなんでもあんまりなので、経済主体の行動がいかに実質価格(賃金)ではなく、名目価格(賃金)の動きに影響を受けているか、ということを示す経験的な事例としてアカロフ氏があげているいくつかの例を紹介しておこう。中でも興味深いのは、一般の労働者や工場経営者が、名目賃金の変動についてどのような考えを抱いているかを明らかにしようとした聞き取り、あるいはアンケート調査の結果である。 

 例えば、Shafir, Diamond and Tverskyによって実施された、労働者に対するアンケート調査(どういった労働者を対象に、どのくらいの規模のサンプルを集めたのか全く書いていないのはちょっと困るが)では、異なる労働条件のもとにおかれたアンとバーバラというサンプルについて、どちらのほうがよりhappyだと思うかを尋ねている。それぞれの労働条件とは、アンがインフレ率0%のもとで年2%の昇給がある、というのに対して、バーバラは年4%のインフレ率の元で年5%の昇給がある、というものであった。アンケートの結果によれば、回答者の79%が実質的にはバーバラはアンより不利な条件にある、ということを認めているにもかかわらず、それでもバーバラのほうがアンよりもHappyだと思う、という答えが64%にものぼったのだ!このことから示唆されるのは、たとえ実質賃金の伸びはそれほどではなくても名目賃金の伸びがあったほうがより主観的にうれしい、と考えている人のほうが実はマジョリティを占めているるかもしれない、ということである。

 また、Bewleyによる工業経営者へのインタヴュー調査からは、経営者自身名目賃金の切り下げには消極的であるという結果が得られているが、その理由は、「名目賃金を切り下げると労働者のモラルや帰属意識がが低下するから」というものであった。また、Shillerによる調査によれば、「たとえ物価が同じ程度上昇していたとしても、給料が上がっていたほうが(一定水準にあるより)大きな満足度が得られる」というステートメントに一定の賛意を示す回答者が全体の49%を占め、ステートメントに「全く同意しない」という回答は27%にしか過ぎなかった。

 Shillerの調査で興味深いのは、経済学者を対象に同様の質問を行った場合には、全く異なった結果が得られたことである。回答者である経済学者の約90%が上記のステートメントに対して、何らかの形で否定的な意思表示を行っている。このような結果は、名目価格(賃金)の水準が経済主体に与える影響についての経済学者の思考には、一般的な人々の思考方法に比べ、大きなバイアスが存在しているということを示している*1。このような経済学者と一般人との間における認識ギャップは、自然失業率仮説の前提-モデルの中の経済主体がすべて経済学者のように実質タームでの価格の動きに反応する-を覆すのに十分な根拠である。

 このほか、名目賃金の水準が重要であることを示す別の例としては、インフレ時の賃金インデクセーションの不完全性、大恐慌における名目賃金の下方硬直性、インフレの程度によるフィリップス・カーブの形状の違い(インフレ率が低いときには過去のインフレ率が価格、賃金に与える影響が0に近づく)、などが指摘されている。


 さて、従来のケインジアンによる、このような名目価格(賃金)の硬直性についての代表的な説明としては、価格変化の際の「メニューコスト」の存在を仮定するものがある。しかし、アカロフ氏も指摘するように実際にそのような「メニューコスト」が経済主体の行動に無視できない影響を与えているかは疑わしい。

 それに代わりアカロフ氏は、上記のさまざまな事例によって示されるような、労働者や消費者が抱く「名目賃金は切り下げるべきではない」、あるいは「企業は財価格を上げるべきではない」という一種の「信念」の存在を重視している。労働者や消費者がそういう信念を抱いているということを企業がちゃんと理解しているなら、名目賃金の引き下げや公正ではないと思われる値上げなどは、社員の士気低下や退職、あるいは消費者離れにつながるので、なんとかしてそれを避けるようにするだろうからだ。
 
 冒頭にあげた「公平賃金仮説」における、労働者が名目賃金の切り下げに対して抱く「不公平さ」の感覚もそのような信念の一つの例であろう。インフレによる実質賃金の切り下げは全ての企業で一斉に起こるが、名目賃金の切り下げは個々の企業で行われるほかはない。これが一種の「不公平感」をもたらすというわけだ。また、他の例としては消費者とブランドの関係がある。消費者はしばしばお気に入りのブランドを持っているが、そのブランドの製品の名目価格が安定している(値崩れしない)ということも、ブランドの信頼性を支える大きな要素の一つだろう。

 ・・以上のような説明は、名目価格(賃金)の硬直性によって自然失業仮説を批判する際にも、これまでみてきたような「中立性」に関する仮説・理論と同じようにように、心理的な「規範」による動機付けを考慮するが重要だということを示していると考えられる。

*1:これをご覧になったみなさんはこのステートメント、あるいはアンとバーバラの例についてどのように判断されますか?