梶ピエールのブログ

はてなダイアリー「梶ピエールの備忘録。」より移行しました。

mojimoji氏への応答

はっきり言ってこの問題に関する関心は限定的なものであるつもりだったし、中国の現状とかこれも戦争責任と法と正義をめぐって慰安婦問題ほどではないが社会問題になった「東史郎裁判」との関心とのからみから考えを述べたわけで「法の外に正義を想定しない」という思想に全面的にコミットを表明したわけでもない(というかその能力もない)し、でちょっと当惑気味でもあるが、せっかくだからこの際自分の考え方をまとめてみたい。
 ただしこれまでの膨大の議論さらに社会問題としての従軍慰安婦をめぐる議論に関する事実関係ををフォローした上で過不足なく語ることなど無理なので、さし当たって関心のあるところだけ語ろうと思う。

1.用語について
まず、ずっと気になっていたのだが議論の中でずっと使われている「正義」という言葉が英語のjusticeとはズレがあるようなのでそれが議論に混乱をもたらしている側面があるのではないかということだ。「法の外に正義を想定する」という時の「正義」はjusticeではなくてむしろmoral=道徳、あるいは「義を見てせざるは勇なきなり」というときの「義」に近いではないだろうか。で、どなたかも指摘していたように、道徳とはもともと宗教や共同体の文化に根ざしているもので、近代社会が成立しその中でさまざまな共同体のメンバーが含まれ、紛争も複雑化してくると、それまでのように道徳だけでは紛争を解決できなくなる。そこで異なる道徳や価値観を調停して社会において「公正」を実現する必要が出てくる。そのために必要とされるのは法システムであり、そこで実現されるものとされるのが「正義」=justiceだ、というのがとりあえず教科書的な理解ではないかと思う*1

 そうすると問題となっている「法の外に正義を想定しない」という言い方についてだが、法の外にモラルがあることはおおや氏ももちろん認めると思うので、「異なるモラルを調停する存在としての正義は、法によってしか実現されない」あるいは「法システムによって扱われるののはあくまでも正義の問題で、モラルについては扱えない」という立場だ、といったほうが誤解が少ないのではないかと思う。
 また、こういった立場とは別におおや氏もちらっと触れていたようにデリダなどは、モラルとはあくまで別の次元で「正義」を想定し、それと「法による正義(法/権力)」とのズレを強調するという立場をとっているようだが、なにしろ門外漢なので学説的にどちらが優勢なのかはわからない(法と道徳との関係に関する啓蒙的な議論としては橋爪代三郎『法とは何か』PHP新書、奥平康弘・宮台真司憲法対論』平凡社新書、が参考になった)。
 ただ、mojimoji氏がおおや氏を批判する時デリダのようにあくまでも「正義」と「法/権力」のズレを問題にしているのか、「モラル」と「法による正義(デリダの用語では法/権力)」のズレを問題にしているのかよくわからないところがある。というわけでmojimoji氏がデリダの法理論を踏まえたうえでおおや氏と議論すれば、また新たな地平が開けたのではないか、という気はしないでもない。

 以上は、もうすでにみんなわかっていることかもしれないが、僕自身のための基本的な論点の整理である。


2.<近代>を保守する立場
 で、mojimoji氏より、「なぜ私ではなくおおや氏の議論に共感を示したのかもう少し言葉を尽くして説明しなさい」と迫られているわけだが、実は「法の外に正義を想定しない」という立場に全面的なコミットをするつもりは、はっきり言って僕にはない。・・というとえらく無責任なようだが、まあ専門家じゃないし、所詮ブログでの独り言だからなあ。
 と書いてしまうとあまりにも不真面目だと思われそうなので急いで補足しておくと、おおや氏に共感したのは「法の外に正義を想定しない」という立場そのものではなくて(それに前面コミットしたり批判したりする能力はそもそも僕にはない)、そのことによって近代的法制度あるいはその解決能力を擁護しようとする姿勢、いってみれば「法の外に正義を想定しない」という思想の怪しさを十分自覚しながらあえてそれに賭けることで近代的な法システムの問題解決力を強化していこうという姿勢に対してである。

 おおや氏自身が(あるいは彼に共感を示しているbewaad氏も)「保守主義者」と自称しておられるので、かえってややこしい面もあるのだが、とりあえず確認しておきたいのは「現行の制度はあまり変えないほうがいい」という意味での「保守主義」と、「現行の制度は変えてもいいが、それを支えているメタ・システムとしての<近代>(具体的には近代的法システム)は、変えないほうがいい」という立場(いわゆる「近代主義」だが、「保守主義」との対比で言えば「近代を保守する立場」とでもいえるかもしれない)は異なる、ということだ。で、僕自身が積極的にコミットするのは前者ではなく後者の立場なのだ。

 だからmojimoji氏がよく持ち出す保守主義的立場の「非対称」(現実を変えることのリスクには非寛容だが現実をそのままにしておくことのリスクには寛容だ)との批判は、確かにそうだと認めてもいいけれども、ただ<近代>を保守するという立場に関する類似の「非対称」については、断じてこれを擁護する立場をとりたい。つまり、「<近代>を安直に批判し、それをなし崩しにすることのリスクは、不完全でも<近代>の秩序を何とか維持していこうとすることのリスクよりも遥かに大きい」というのがとりあえずの僕の立ち位置と取ってもらってかまわない。

 そこで、女性戦犯法廷に話を戻すと、よこはま氏が確かどこかで示唆されていたように、あくまでも近代的な法システムの内部の「市民的不服従」の論理によって正当化することはありうると思う。ただ、その場合でも実際の法廷についておおや氏が呈した疑問についてはこたえられる必要はあるだろうが。

 それに対して、あくまでも<近代>批判の立場からおおや氏の立場を批判する立場も当然ありうる。例えば仲正昌樹氏が『歴史と正義』(御茶の水書房)という本でアメリカにおける「正義」概念の変容について述べている一節を借りれば、
 「多様な文化的背景を持つ人々から成る移民国家において、「水平的正義(=法の下で実現される正義)」を維持しようとすれば、「普遍性」を創出する始原の暴力として垂直的正義(=キリスト教的モラルによって支えられた正義)を持ち出す必要があった」、それが露呈したのが9.11以降の正義の名を持って暴力を振るうアメリカだ、というわけで、これをもってアメリカ的(ロールズ的あるいはおおや的?)な「法の正義」の虚構性を指摘することはたやすいことだろう。いや別にアメリカの例を持ち出すまでもなく、ベンヤミンによる「暴力」と「法的秩序」の緊張関係の指摘とか、アガンベンのいう主権者による「例外状態」の創出の問題とか、西洋社会の「正義」の「虚構」をあばきたてる理論には事欠かない。
 特にアガンベンの議論は、法的秩序を陰で支えるものとしての「暴力」が、法的秩序が成立する前の「始原」に存在しただけではなく、近代的法秩序が成立した後にも主権者による「例外状態」の創出という形で絶えず再生産されてきた、ということを指摘したという点でやはり衝撃的なものだと思う。彼の議論が今後何らかの形で社会的正義を実現していこうというアクションにとってどんな意味を持っているのか、それは機会があればこれからも考えて生きたいと思う*2

 しかし、そういう近代批判の議論の説得力は認めながらも、あるいはそういった批判を理論的に追及していくことの必要性は認めながらも、やはり現実問題を考えていく際のツールとしてそういった議論には「乗れない」というのが僕の立場である。そういう立場をとるのは、そして日頃ポストコロニアリズムの悪口ばっかり書くようになったのは、ひとえに職業柄中国の現実ということを常に考えざるを得ないからである。
 中国については、すでにいくつかブログでも触れたし、これからも触れていくだろうけれども、そもそも憲法が「市民の国家に対する命令」という形をとっておらず、三権分立のかわりにあるのは「プロレタリアは権力の濫用をしない」という虚構に支えられた議行合一システムで、党による司法への介入は日常茶飯事である。その構造に少しでもメスを入れようとした趙紫陽訒小平を初めとした有力者の逆鱗に触れてあえなく失脚した。現実問題として共産党が「剥き出しの暴力」を振るおうとした時にそれを防ぐ国内の制度的な歯止め指導者達の「良心」以外に現在に至るまで全く存在しない(国外には存在するが)、というのが中国の現状である。
 それに対して、「いやどうせ欧米や日本でも「例外状態」が日常化しつつあって剥き出しの生とか暴力が出現しつつあるんだから、中国と大して変わりませんよ」という態度をとるのが、「悪の帝国中国を封じ込めよ」という石原チックな姿勢よりいくらかましで、知的に誠実な態度だとはどうしても思えないのだ。その意味で、「中国」の存在とは(少なくとも日本で)<近代>を批判する思想にとって最大のアポリアだと思わざるを得ない。とりあえずはこのアポリアを認めたうえで<近代>にいかに向きあうのか、中国の人々と徹底的に語り合うしかないのではないかと思っている。

 ・・以上若干話がそれたかもしれないが「法と正義」の問題に関する僕の立ち位置についてとりあえず説明してみた。女性戦犯法廷については責任ある発言をしようと思えばもっと時間を割いていろいろ調べなければならないので態度としては保留とせざるを得ない(最初からそういう立場)が、少なくとも、おおや氏のような形式にうるさい専門家も一応納得させるような形で開催することは可能だったと思っているので、そういう形にならなかったことについてはやはり残念だなあ、と言わざるを得ない。ということで、これは何度も言っているように運動そのものの意義を否定しているわけではなく建設的な批判をしているつもりであるということを理解して欲しい。これについては一貫して女性戦犯法廷にコミットしてきた高橋哲哉氏も最近の『証言のポリティクス』で、法廷の理論的根拠についてのさまざまな批判があることに触れた上で、運動が一定の限界を持っていたことを率直に認めていて、興味深かった。


3.その他 
これで大体言うべきことは言ったような気もするし、かなり疲れたのであとは簡単に済ませたいが、後一つ「社会運動のマーケティング」についてだけれども、社会運動である限り「少しでも多くの人に理解してもらう」ことはやはり大事であって、それを「商売ではないから」という言葉で片付けてしまうのはどうかと思う。ここはむしろマーケティングのアナロジーとしてよりも教育のアナロジーとして受け取って欲しい。mojimoji氏も教師をやっている以上、ある学力以下の学生にとっては同じ内容であってもその教え方の工夫によって理解度が全く異なることについては経験がおありだと思う。そして、教え方の工夫をすることと学生に迎合せずに一定の水準のレベルを保つことは両立可能である。そしてそれが両立できない教師は、いくら立派な学問的知識を持っていたとしても、教師としては批判されるべきだ。僕の言っていることはそういうことなのだが。
 あと、「立ち位置」の問題についても少し語ろうかとかと思ったが、いい加減朝早いのでこの辺でやめときます。ただ一言だけ言っておくと「立ち位置」とは言葉によるコミットメントによって示されるものだけではなく、現実の振る舞いによって示されるレベルのものもあるので、特にこういったブログでの議論で何か決着をつけよう、というかある人物の立ち位置をブログの発言だけから判断してそれを批判していこうとするのはかなり無理があると思う。この話題に関するブログでの議論はかなり煮詰まりつつあるのではないだろうか。というわけで個人的にはmojimojiには専門の領域における研鑽と自らの「持ち場」と定めた場所での実践に一旦戻って欲しいと思っているのだが。

*1:mojimoji氏だけではなくおおや氏まで「道徳」という言葉を避けているのはなぜなのか判然としないところがあるが、たしかに僕自身の体験から言うと、小学校から「道徳」ということを蛇蝎のように忌み嫌う教育を受けてきたので、とても「道徳」ということばから「善きこと」をイメージできないということは確かにある。お二人とも僕とは同世代なのでその辺に関係があるのではないかと邪推する次第だが、まあ以下ではイメージ中立的に「モラル」という言葉を使っておくことにしよう。

*2:余談だが僕にとってこれまで今名前を挙げたような思想家の著作は単なる本棚の飾りだったのだが、今回の活発な議論の流れの中で改めて「ああ、なるほどこういうことだったのか」「西洋思想にはこれほどまでに深く「法」の問題が刻印されているのか」と初めて腑に落ちたものが多かった。その意味でもmojimoji氏やおおや氏には感謝したい。ただそういったわけで所詮付け焼刃の理解なのでこの辺はあまり突っ込まないでください。